四方山談義 エビは旨いが・・・どうしよう!? その2

とは言っても、性急に日本におけるエビの消費を抑制したら、逆に輸出国の経済を混乱させてしまうでしょう。孫小作人や定額(分益)小作人といったエビの養殖に係わる人々を路頭に迷わしてしまう可能性もあります。だから、せめて儲けだけではなく、相手の国の将来の発展を考えた商売を行って欲しいものです。特に自然環境の保全は十分に配慮すべきです。

 

このことはエビに限ったことではありません。よくよく考えると、エビは象徴的なものであって、日本は自動車でも半導体でも化学薬品でも圧倒的な技術力で東南アジアを席巻しています。

 

 

 

近頃は中国の大塔もあって、日本の勢いが陰ってきましたが、依然として経済的な支配下に置いていることには間違いありません。確かに、利益を追求する企業としては必然的成り行きでしょう。しかし、いつか大きなしっぺ返し食らうかもしれないと危惧している方も多いはずです。ピュリズムの大塔から急速に支配者階級と労働者階級の逆転が起こる可能性もあります。長く友好関係が築かれている国と言えども、政変や内戦、クーデターなどで、国政が一変してしまうこともあります。もし、将来、食料生産国が日本に食料を供給しなくなったら、日本の食生活は間違いなく貧しものになるでしょう。日本は約4割の食糧を輸入に依存しているからです。

 

恐らくアジアの未来は、EUと同じようになると推測されます。国と国との垣根が取り払われ、運命を共有するようになるかもしれません。企業には適材適所という従業員の活かし方がありますが、同じように其々の国が役割を分担するようになるかもしれません。TPPは流れてしまいましたが、近い将来東南アジア経済共栄圏なるものがつくられるような気がしてなりません。ですから、日本もその流れに乗り遅れてはなりません。今から効率的な生産のノウハウ、しかも環境を守るという日本の得意技で共栄関係を築くべきでしょう。

 

輸出国の支配者階級との蜜月関係も良い面、悪い面があります。大きな事業を推進させるためには、権力者の協力が絶対です。色々な裏事情もあるでしょう。ただ、結果として多くの国民の利益にならなければ、私腹を肥やす悪徳元首の片棒を担ぐだけで終わってしまうでしょう。あくまでも将来を見据え、安定した国家関係が維持できる対策も織り込むべきでしょう。国民の中に親日派が多く、善隣友好関係が築かれている今のうちにです。

 

現在、現地ではさすがに今までの養殖の在り方を反省する向きもあり、マングローブを植林したり労働者の賃金や労働条件の改善に取り組んだりしていますが、まだまだ十分とは言えません。2004年のスマトラ沖地震により発生した津波による死者は史上最大の惨劇になっていますし、2016年の津波でも100人近い死者が出ています。もし、マングローブの林が温存されていれば、死者の数は半減していたと、多くの学者が推測しています。海洋性地震に津波はつきものです。次の地震はいつ来るか解りませんが、間違いなく必ず来ます。一刻も早いマングローブの林の復活が叫ばれるところですが、果たしてどうなることやら。エビの養殖から免れた地域でも、食糧確保のための農地化やアブラヤシのプランテーションが進んでいるからです。他国の政策に口をだすつもりは毛頭ありませんが、気になるところです。

 

エビ食いたさでマングローブの林を減らしてしまった責任の一端は我々にもあります。

この事実を知ってしまうと、エビを食べ残すことなど、とても出来きません。頭までしゃぶって、エビの供養とともに生産者の苦労を鑑み感謝するのみです。

Continue reading

四方山談義 エビは旨いが・・・どうしよう!? その1

伊豆の下田は開国の地です。今から約160年前の嘉永7年3月にペリー監督率いる黒船船団が忽然と浦賀沖にあらわれ、強引に開国を迫りました。その強大な軍事力に圧倒された幕府は、やむを得ずこの下田と函館に寄港することを許しました。それ以降、日本はずっ~とアメリカに頭の上がらない国になってしまいましたが、それなりに恩恵も被っている面もありますので、複雑な気持ちになります。

 

歴史探訪もさることながら、下田は海外にも知れた温泉地でもあります。泉質は単純泉、サッパリした湯ざわりなので、誰でも違和感なく入浴が楽しめます。

それだけではありません。リアス式海岸なので、多彩な魚介類が獲れます。鯛やカレイ、キンメ、カンパチ、シマアジ、イシダイなどなど、刺身でも焼いても煮ても、美味しく食べられる魚ばかりです。煮ても焼いても食べられないと言われている私にとっては憧れの存在です。つまらない話はさておき、これらの海の幸が目の前を飾ると、思わずニンマリしてしまうのは私だけでしょうか。

 

中でも、伊勢エビは思わず舌鼓をしてしまうほどの美味しさです。口の中でうま味とほのかな甘みが広がると、何とも幸せな気分になります。当然、美味しい肴があれば酒も進みます。冷えた生ビールをジョッキ2杯、続けて冷えた地酒を1合、いや2合、酒も躊躇することなく喉を通過して行きます。浴衣の袖に醤油が付かないように気を付け箸を進めるも、いつしか袖どころか、腹帯にもポタリ、無頓着な子供のようになってしまいます。

そのキモは味噌汁のダシに、これが実に美味、御代りをねだりたいところですが、一人一杯、我慢するしかありません。

 

それにしてもエビは旨い。伊勢エビに限らず、どんな種類のエビでも。もっとも、このエビ好きは私だけではありません。日本国内の年間のエビの消費量は約25万トンとのことです。つい最近、アメリカに輸入王の座を明け渡しましたが、それまで年間約30万トンものエビが日本人の胃袋を満たしていたのです。何と日本人はエビ好きな民族なのでしょうか。

 

1960年代初頭まではエビは高級な海産物でした。当然、庶民の食卓に乗ることは余りありませんでした。ところが、高度成長期になり食生活が豊かになると、エビの輸入が急増し、日本は世界第一位のエビ消費大国になりました。しかし、それが思わぬ影響を輸出国にもたらしたのです。東南アジアの漁民は、高値でエビを日本に輸出できるので、挙ってエビを獲るようになりました。エビは海底付近に生息するので底引き網漁法が主体になります。しかも、効率的に大量に捕獲するには大型のトロール船が必要です。このため、インドネシアでは莫大な投資が行われましたが、乱獲がたたり次第にエビの水揚げ量が減ってしまいました。この結果、借金の返済に苦労する漁民も多数あれわれるようになりました。それどころか、エビと一緒に網に入った魚貝類は商業的な価値がないということで、ほとんどが海に捨てられてきたため、海洋汚染も進んでしまいました。日本の輸入業者は、この事態を軽視し、エビ資源が枯渇する寸前までエビを買い付けました。エビを捕食する魚も数知れず、次第に多くの魚種が繁殖困難になり、海が死にかけてしまったのです。

 

その後、日本の商社は、安定的に大量のエビを確保するために養殖にも力を入れるようになりました。庶民向けスーパーが、冷凍エビといった格安で調理し易い状態したものを拡売するようになり、急速に需要が伸びたからです。台湾で行われていたエビの養殖池をヒントに、インドネシアでもフィリピンでも大掛かりにマングローブの林を切り開き、エビの養殖池に変えてしまったのです。マングローブは海に接する河口付近に自生する植物で、それを棲家にしている多くの生物が海の浄化に寄与しています。ですから、マングローブの林が減るとともに多くの生物も生存出来なくなってしまうのです。また、養殖池が故に多量の農薬が必要となり、環境汚染も問題になりました。その他、孫小作人、定額(分益)小作人、養殖家主、集買人などといった経済的なカースト制をも作り上げてしまいました。貧富の差が生まれ、のどかな南の島の人々の生活は一変してしまったそうです。このように、日本人の食生活の豊かさは、東南アジアの人々の生活や自然を犠牲にした上で成り立っているという現実を考えると、今さらながら我々の食生活を見直さざるを得なくなってしまいます。

Continue reading

四方山談義 里山の自然とアベサンショウウオ  (2)

里山の自然とアベサンショウウオ(2)

それでは、何故このようにアベサンショウウオの生体数が激減してしまったかというと、ひと口で言ってしまえば、人間による自然破壊です。低地の人里付近では広葉樹の二次林を伐採して道路や住宅、農地を造り、生息地を縮小させてしまいました。京都府竹野郡では従来の生息地を追い出され道路の側溝で産卵せざるを得なくなったアベサンショウウオが、その後数年で絶滅したと語り継がれています。側溝の乾燥や餌の少なさが幼体の生存を妨げたのです。また、生活廃水や農薬、ゴミの不法投棄も環境汚染に脆弱なアベサンショウウオの生存に悪影響を与えていることでしょう。更に山地ではゴルフ場やスキー場の開発のため、森林が伐採され生息地が狭まられてしまった。アベサンショウウオは皮膚呼吸をしている両生類なので、乾燥に弱く毒物も容易に体内に侵入してしまうという特徴を持っています。したがって、環境の変化に適応する能力が低く、里山の自然が保全されない限り、絶滅に向かってしまいます。里山を形成している山地から低地までの森林や河川などの自然を保護しなければならないのです。

 

武生市西部地区は標高100m前後の盆地で、雑木が生い茂った標高150~200mの山々に周囲が取り囲まれています。また、その山々に降った雨や雪解け水の流れは地下にゆっくり滲みこみ、再び標高110~120mの山際で湧き水として地表に出てきます。武生市西部地区の住民は粘土質の土を掘り下げ水路を作り、その水を水田や溜池などに緩やかに誘導しています。この環境は里山の典型的なモデルと言えるでしょう。この環境があってこそ、アベサンショウウオが生息出来たのです。ところが、近年住民の高齢化や過疎、あるいはイノシシなどの獣害の増加などで、耕作を放棄する農家が多くなりました。そのため、里山の自然を守っていた水路の管理も手薄になり、水田や溜池、湿地帯が乾燥化し出しました。また、土地改良でコンクリート水路が増加したり、除草剤や農薬の散布が頻繁に行われた結果、アベサンショウウオだけではなく、生物の多様性をも壊滅させてしまう可能性が出てきたのです。そこで、武生市西部地区の住民は複数の団体や行政の支援のもと、水辺の生物を保護するために里山の保全に乗り出したというわけです。

 

産業革命以降、環境破壊は急速に進みました。その結果、今になって様々な弊害が顕著にあらわれてきました。この危機を乗り越えるには、自然と共存し持続可能な循環型社会を築くことが急務でしょう。この循環型社会は、つい最近まで日本中のあちらことらの里山で普通に見られたのですが、人がコンビニエンス社会を極端に追求したことで、取り返しがつかないほど里山の環境を悪化させてしまったということです。このような状態が続けば、近い将来人間はもとより地球上のありとあらゆる生物の生存権が脅かされるのではないかと危惧されています。

 

そこで、昨今、健全な里山の保全や再建が叫ばれるようになったというわけです。但し、里山の自然を保ち、その中で生息している生物の多様性を保全するには、その地区の住民だけに負担を強いてはなりません。里山の生活環境は厳しく、住民の努力だけではまず不可能だからです。それに、文明という生活様式の変化は必然的に里山の環境は崩壊してしまいます。やはり、近隣住民の協力の元、自然保護団体(NPO)、農協、大学の研究室、行政のバックアップが不可欠でしょう。また、自然保護に関する意識を高めるための学校教育や、国民への啓蒙運動も行わなければなりません。更に企業との折り合いや、場合に入っては支援も必要になるでしょう。課題は山ほどあります。

 

そう言えば、昔、どこの水田でも見られたゲンゴロウやヤゴ、タガメ、ミズカマキリも近頃ではとんと姿をあらわさなくなりました。雨あがりの水溜まりにどこからともなく飛んで来たアメンボウはどこに行ってしまったのでしょうか。カエルもドジョウも数を減らしましたが、水生昆虫ほど激減した生物種はないでしょう。イネにとって、最大の敵はカビとゾウムシやウンカ、カメムシなどの害虫ですから、農薬もカビや昆虫類に的を絞っているのでしょう。しかもタイムリーに撲滅する時期を選んで散布するとのことです。散布方法も近頃では無人ヘリコプターを利用するようになり、効率的に隅々まで行き渡らせることが可能となりました。静まり返った田んぼの上空を、けたたましい爆音を鳴り響かせ、農薬を霧雨のように噴霧している様子を見れば、誰しも悍ましく感じることでしょう。それどころか、雑草の処理のため、除草剤も定期的に撒いているそうです。田んぼのあぜ道を通るのも、気が引けます。

それでも、我々の胃袋を満たすためには、農薬の使用は仕方のないことかも知れません。完全な無農薬栽培となると、平均の収穫率が20%以上減ってしまうとの報告があります。ところによっては100%虫の餌になってしまうそうです。農薬の多くは消費者に行き渡る前に消滅してしまうとのことですが、全く不安を感じないわけではありません。米の貿易が自由化すれば、未知なる農薬の残留も危惧されます。安くても一抹の不安が残る米を選ぶのか、高くても安全な無農薬米を選ぶのか、頭が痛くなりそうです。

 

ともあれ、子供の頃田んぼを気持ち良さそうにすいすい泳ぐゲンゴロウの姿を頻繁に見かけましたが、今は滅多にお目にかかれなくなってしまいました。考えてみれば絶滅危惧種に指定されるぐらいなので、当然のことでしょうが。タガメは最早絶滅に近い状態とも聞きます。ときにはマムシの体液を吸うぐらいの勇猛果敢な昆虫ですが、哀れな状況に陥っています。

 

ホタル狩りが楽しめる水田も多くはありません。かよわいヘイケボタルは住める場所が限定されてきているようです。夜な夜な幻想的な光を放ち飛び回っている水田が珍しいということでテレビでも紹介されたぐらいです。ホタルの世界でも源氏が平家に勝ったようですが、平家も追いやられているようなので、痛み分けといったところでしょう。

世の人の多くは虫が嫌いです。虫なんか居ない方が良いと思う方もかも知れません。

でも、虫が居なければ、その捕食者である野鳥も野生動物も生きていけません。

 

こうなると、自然保護区も大切ですが、種の多様性を守る特区も作ってもらえればと希望してしまいます。産業発展のための特区ではなく、人間と自然が共存できる特区です。

 

隣で首までどっぷり浸かっていたご老人は、いかにも優しそうでした。日焼けした顔、その中に刻み込まれたシワ、未だに衰えを感じさせない二の腕の力こぶ、長い間自然と共存し、大地を相手になりわいを立ててきた証拠でしょう。こんなご老人の頭を悩ませてはなりません。

 

仕事は上手くいきましたが、つくづく考えさせられる出張になりました。

 

 

 

Continue reading

四方山談義 里山の自然とアベサンショウウオ その1

里山の自然とアベサンショウウオ (1)

 

先日商用で福井に行く機会がありました。その折、3時間ほどフリーな時間がありましたので、越前市の西に位置するしきぶ温泉に立ち寄りました。ひと風呂浴びて、気持ちをリフレッシュさせた上で商談に臨もうとしたわけです。

 

湯船に浸かっていると、“○○さんの家の裏山でアレの子供を見つけたよ”と地元の農家の人らしいご老人が話していた。続けて、“後が大変だな、役所の指導が入るかもな”と眉間にシワを寄せていました。素知らぬ顔して話の続きを聴いていると、絶滅危惧種のアベサンショウウオの子ということが解りました。

 

ここに来る途中、長閑な田園風景が広がる中を鼻歌交じりで車を走らせていると、背丈が30cmぐらいに伸びた若穂が風に吹かれて棚引いている光景が目にはいりました。車を降りて辺りを見渡すと、こんもりとした山並みと藁葺き屋根の農家、まさに昔懐かしい里山の風景が広がっていました。

 

豊かな自然が残っているからこそ、この地にサンショウウオが生き残れたのでしょう。

 

帰宅後、環境保全に努めている地元の皆さんのご苦労に痛み入りつつ、生息数が激減しているアベサンショウウオに興味を引かれ、その現状をネットなどの情報を基に調べてみることにしました。

 

日本固有のアベサンショウウオはサンショウウオ目サンショウウオ科カスミサンショウウオ属の小型のサンショウウオです。体長10cm前後で、前足の指は4本、後ろ足の指は5本です。体表の色は暗褐色で、灰青色の腹部には薄い水色の斑点があります。繁殖期になると、雄の尾部は竜骨状になり尾高も高くなるようです。生活環境は広葉樹の二次林や竹林の奥深くの薄暗くジメジメした場所で、苔の生えた岩陰や湿った落葉の下を好むとこことです。餌はミミズやクモなどの小型の昆虫とされ、寿命は定かではありませんが、9年齢の個体が発見されています。

 

また、非常に警戒心が強く危険を察知すると捕食を止め、長引くと餓死してしまうと言われています。厳冬期前の11月から12月に繁殖期を迎え、1匹の雄に複数の雌が交尾し、左右が対になった透明でらせん状の卵嚢を産卵します。卵嚢には70~80個の卵が含まれていますが、イモリなどの捕食者に食べられてしまうことが多く、他の成体まで成長出来る数は少ないそうです。更に繁殖に適した条件は限られています。多くの場合、湧き水により形成された林縁の水溜りや溝中で、泥底に落ち葉が重なって堆積している場所です。

 

これらの環境は正に里山に存在する森林地帯でしょう。ところが、近年その自然が破壊されるにあたり、アベサンショウウオの生存に関して壊滅的な打撃が加わりました。イモリなどの捕食者などは比ではありません。そのため、種の保存法により国内希少野生動植物種に指定され、個体の保護と生活環境の保全が推し進められています。ただ、現在の生息地域は兵庫県の但馬地方や京都府の丹後半島、福井県の北部といった極めて狭い範囲に限られていますし、生息数も僅かで福井県北部の武生市西部以外は絶滅に近い状態と言われています。国や府県の政策も遅きに帰したという感は否めないでしょう。

 

 

Continue reading

視床の機能を探究 その3 活脳鍼を応用した瞑想法(2)

実際

自己催眠から瞑想に至る方法

無題.png1

 

順序

 

  1. 我々の身体は特定の方法[何かを見たり(V)、自問自答したり(A)、息をする(K)]によって、生理的な「リラクセーション反応」を起こすようにできている。これからこの3つを同時に使って「リラックス」する。
  2. 足元をそろえて、気楽な姿勢で座ります。
  3. 視点は目の高さよりやや高めの位置、中心点(・)に注視集中する。
  4. (5秒後)目をリラックスする → 周辺視野に周囲の壁が見えます(V)。
  5. (この時、呼吸パターンに変化が必ずおきているので)息を吸う時の2倍の長さで息を吐くようにする(K)。(…呼吸の変化を増大させることになる。)
  6. 3呼吸後、目を閉じる、周辺視野のイメージを頭に描く。
  7. 「落ち着く(リラックス)」という言葉をゆっくり、自分に言い聞かせるように繰り返す(A)。 → その言葉に注意を集中。
  8. 5秒後、暗示を与える:心がオープンになり、安らかな感じが全身にみなぎる。
  9. 深化の暗示

(1)源泉の黄金の光のエネルギーが目の前に満ち溢れているイメージをしてください。

黄金の光は、エネルギーの中心に向け動いています。

(2)その光の流れに自分自身をのせましょう。

・流れにのるとエネルギーの光の中に吸い込まれていきます。

・黄金のエネルギーの中をゆれ動いていきます。

・エネルギーに融け込み、エネルギーの響きを全身で味わいましょう。そして

・エネルギーそのものになりましょう。自分自身の体はなくなっています。

(3)十分に体験したら、深呼吸する。

エネルギーを自分の心の中に向ける。

心と脳がエネルギーのかたまりとなり黄金の光を発して輝き出す。

(4)エネルギーは膨れ上がり、身体の隅々まで広がる。

全身の総ての細胞一つ一つにしみわたる。

全身がいきいきとし活気にあふれる。

(5)十分にあふれるまで続けましょう。

その状態のままで自分のゴールを一つだけイメージして目の前におく。

以上、視床の機能を探究というテーマで長々勝手なことを述べてきました。耳障りなところもあったかも知れません。平にご容赦頂きたく存じます。

 

この活脳鍼を併用した瞑想法により、皆様の実生活が豊かになることを祈ってやみません。

 

Continue reading

視床の機能を探究 その3 活脳鍼を応用した瞑想法(1)

瞑想とは、殆どの宗教で取り入れられている精神修行の一貫で、頭脳明晰で安寧な精神、安定した感情、慈愛や慈悲に満ちた心を養うことを目的にしている。また、瞑想は特別な器具や服装もいらず、場所も選ばない。外からの刺激が過度でなく、緊張しにくい場所を自ら選定するだけで良い。現在広く行われている瞑想は、3方法に大別される。そのひとつはフォーカス・アテンション瞑想と呼ばれ、意識を静かで深い呼吸サイクルを繰り返し、それに伴って動く腹部や空気が鼻を通過する感覚に注意を向け続けることで、脳裏に浮かんで来る思考を抑制させる。つまり、集中力を養ったり、心を空にしたりすることが目的となる。本格的な瞑想に入るための準備段階と言える。背外側前頭前野の活性化があらわれると言う。

もうひとつはマインドフルネス瞑想で、脳裏に浮かぶ思考に執着せず、次々と流していくことで、客観的に自己を観察する能力を養うことが目的となる。自分の感情や考え方、痛みなどの感覚に対して冷静な判断ができるようにし、それに囚われない精神力を身に付けるのだ。これにより、ストレスの多い環境でも、ストレッサーとして認識されずに済むようになる。うつや神経症などの精神神経疾患の改善をはじめ、進行ガンによる疼痛の軽減、創造力や直感力の向上にも役立つと言われている。熟練すると、右脳の活性化と不安に関係する島皮質や扁桃体の活動低下が認められる。

そして最も難しいのが3番目の瞑想で慈悲や慈愛の気持ちを持ち、利他的・他愛的な態度を養うのが目的となる。自分自身の幸せからこの世に生きとし生けるもの全ての幸せを願って瞑想することで、万物創造の源や無限の愛、無限の意識が感じられると言う。死後の世界の扉を開くことにも繋がる。先に紹介したヨーガや禅宗、真言宗などで用いられている手法である。

チベットでは、数日から数週間、心臓も呼吸も止めて、臨死体験を経験する瞑想法をトゥクタムと呼ぶ。現代医学では到底理解できない現象であるが、実際修行を積んだチベットの高僧やインドのヨーガの行者の間で行われている。瞑想の究極的な到達点とされるが、そう簡単には会得ものではない。

そこで、これら3つの瞑想法の助けになるように活脳鍼の併用を勧める次第である。

特に瞑想に入りやすいとされるトランス状態に導くために。

方法

①活脳鍼の任意のツボに円皮鍼を貼り付ける。

具体的には鼻と唇の間、右のこめかみ、左のこめかみと順に貼り付ける。

 

②飲水

わずかに冷えた水を口に含む。味わいながら飲み込む。あと味も味わう。食道をつたわり胃に流れ込む感覚を得る。

 

③内臓の叫びを感じ取る

そのご腹式呼吸。胃腸の動き、心臓の鼓動、呼吸音、手足の温感、筋肉のほぐれなど、静かな内臓の叫びを感じ取る。

 

そしてリラックスしたら、瞑想にはいる。

気持ちの落ち着きぐあいは色調でも調べられる。

 

向かって左側の緑円を20秒間凝視する。

④右側の白円を見て、ピンクあるいは赤残像が確認される時間(秒)をカウントする。

⑤残像がない、あるいは5秒以内に残像が消えれば、そのまま瞑想に移行する。

⑥残像が6秒以上だったら、貼り付けた円皮鍼の上に人差し指を押し当て、5秒間圧迫刺激を与える。

⑦その後、腹式呼吸を2~3分行い、再度②を行う。

⑧それでも残像が④にならなければ、その日は諦めるか、一定時間経過した後に再度①~⑦を繰り返す。

無題.png1

Continue reading

視床の機能を探求 その2  意識論(7)

2無題

①S情報は特殊系(情報伝達速度は②より速いという) ②よりも①の方が先を行く。

②視覚情報は非特殊系

①が中断されれば②は中断される。

*当課題において0.2秒時点での皮質への強刺戟Sは記憶のよび出しに障害を与えていないのであろうか。“視覚情報を記憶しておく”のであるのだから。

ユーザー・イリュージョン・意識という幻想には無意識を論じている文言がある。フロイドやユングの仮説に閾下知覚の影響

  • 人は覚醒時に受けた閾下刺激を夢の中で思い起こせる。
  • 無意識には閾下に入ったあらゆる心的要素が含まれる―閾下とは、有意識に入って来ないと解釈する。
  • 意識に識別できない二つの覚醒の差異を生体機能は区別できる。
  • 世界との無意識の相互作用と意識とが均衡を保つときに、意識には価値がある。
  • 意識ある<私>と無意識の<自分>の共存。

閾下知覚とは意識にのぼらない、知覚にのぼらない、自己の認識にのぼらない、即ち自覚しないということである。

元意識論の立場からこれを観ると、元意識から、認識/知覚までの流れは次のように描ける。

0302png

元意識(無相、様々な可能を内包)は視床・大脳皮質系により転換され有相の意識として出力され、これが認識となる。

視床・大脳皮質系の働きは、無相を翻訳編集し非有相(の意識、即ち情報)とし、この非有相を読取り、有相(の意識、認識可能の情報)として出力すること。

出力された有相は直ちに過去相となり非有相となる。

無意識とは無自覚のこと。従って上図において、有相の意識のうちの自覚されたもの以外は総て無意識である。

 

無相の元意識、非有相の意識、自覚以外の有相の意識、過去相の意識がそれである。無意識には様々な可能性・エネルギーがあることになる。

ユーザー・イリュージョン・意識という幻想には意識の起源を解説している項がある。

ジュリアン ジェインズは神々の沈黙の一説を借りている。

  • 意識ある<私>は、人が最も身近に経験するものだ。・・・だが、<私>自体はどこから生まれたのだろう。
  • 意識と<私>という概念は、歴史とともに創られたものであり、それゆえに歴史とともに変化する。
  • 彼の考えはこうだ。大昔、3000年以上前には、意識も、<私>という概念も、人間が自分の内に心を持っているという認識もなかった。(p380)
  • 人間観における、古代人と私たち現代人との根本的な相違は、古代人の頭の中で独立した内観活動が行なわれていなかった点にある。古代人には意識もなければ決断もなかった。
  • <二分心>が言語の発展により崩壊し、文化が激変し、それが意識の起源となった。

二分心:人間の心は二分されていた。・・・左右の大脳半球に呼応して心も二つの部屋に分かれていた。右脳で行なわれる非 言語的活動はすべて、人の頭の中で聞こえる話し声(-幻聴か)の形をとって、左脳へ伝達された。・・・古代人たちは自らの中で何をなすべきかを告げる神々の声を聞いた。

これらは我々のなれ親しむ意識に関するイメージ、或は今までの元意識論と異なっている。インド哲学の自我思想において、周知の如く西暦紀元以前に形而上学的思弁が発達し、我に関しても幽玄な思想があらわれたとある。

意識のとらえ方のちがいによって、意識の起源も異なってくる。インドでは定説なし――無始無終、有始無終、有始有終、である。元意識論では、個々の意識は無相であるが、可能の「場」である。無相中に大我を蔵する――無相と無相の大我は、どのようにして、いつ出現したのかは、わからない。不可思議である。とりあえず無始無終となる。総てのビッグバーンを超えているとでも言っておうこうか。

有相の意識は元意識の内容するエネルギーが具体的に有相として出力されたもので、用途は限定され、その有相の意識の主人が用途に従う形となる。これを逆にしたい。主人が予め用途を定め、それに適う有相の意識を得たい。それにはどうすれば良いか?一案として次の方策を提示する。

無相から有相へは、視床-大脳皮質系の働きによる。日常、我々はこの働きを自覚することはできていない。解剖学的にも両者間には神経線維の相互乗り入れがあり、視床なくして皮質なし、その逆もまた真なりと云われている。

そこで、幾分なりとも自覚をもって、この働きに割って入るとすれば、対象は視床と大脳皮質の機能を如何にコントロールできるかが課題となる。

では、その手順であるが、次のように考える。

 

1)情報量の多い神経回路への乗り入れである。先ずは情報の総てを停止し、情報量ゼロにしてから目的とする神経回路に単独で静かに入る。その神経回路に、「無相」から目的とする非有相を誘導する。神経回路は自ずと有相化につながる。

2)情報の遮断は、瞑想を利用する。絶え間なく出没する想念を静めるために伝統的に用いられている方法がいくつかある。それを用いる。出没が絶えてしばらくすると自動的に「私」(自我)を直覚する。

3)「目的」を明確なイメージで提示する。

4)そのままを保つ。

 

予め留意すること:

1.我々の尊重する科学的情報(因と果の間にある縁を主観的にではなく明示する学)を完全に無とする。

2.あらゆる疑念の意識(非有相を含めて)を完全に無とする。

3.自信(自己を信ずる)は、有るでもなく、有らざるでもなく、但し無ではない、であること。

4. 五感からの情報を鋭く感じ取る。

5.意気込むのでもなく、意気込まざるでもなくして試みる。

 

以上である。

 

これは既におこなわれている。仏教、ヨーガ、世界的な規模で浸透しているマインドフルネスなどの瞑想である。科学者でも哲学者でもない人がが、「智慧」を得ている。加えるに、仏教では慈悲を明確な目的としている。これは、いかんとも我々には荷が重い。補助手段が必要であるというのであれば、自己催眠を補助として瞑想する。そして最も有効と思われるのが、活脳鍼を補助として瞑想する方法である。活脳鍼は、特殊系神経伝達路により視床(後腹側核)に及ぶ。併用により、視床の活動を増幅させる。無相からの志向を有相の意志として利用することができるのではないだろうか。透覚、幻化、力化、物質化はともあれ、第6感や第7感を得る手段のひとつとして役立つのではないか。

 

視床の機能を探求 その2  意識論(6)

A刺激は元意識、視床・大脳皮質系により有相の意識(情報内容の認識或は知覚)となり自覚がおきる。所要時間0.02秒、但し直ちに現在相から過去相となり非有相となる。即ち、自覚が消滅する。従って客観的記録を残す必要がある。

A刺戟から0.2秒後、視床・皮質系の大脳皮質感覚領野の相当部位に強力な電気刺激を与える。視床・大脳皮質系は機能停止(一時的)。

機能停止と共に現在進行中の有相化されつつある意識も含めて、今の現在相は過去相となり非有相となる。自覚は消える。

不思議なことに客観的記録も有相化がおこらず知覚されない。では、客観的記録は在るのか、無いのか。

このように、本実験の目的は、意識とはどんなものなのか、その本態を知覚するためのもののようである。ユーザー・イリュージョン・意識という幻想には“ユーザー・イリュージョンとしての意識”という項がある。意識があるかぎり世界をじかに体験はできないと言う。その中に「瞑想はユーザーもイリュージョンもない状態ということもできるだろう」とある。

客観的記録の「客観」とは主観に対する言葉(観念)である。主観とは意識、主観がなければ客観もない。意識が消えれば、主観が消え、客観が消える。意識が消えるとは無相となること。「客観的記録も消える」などと笑うことなかれ。

 

 

 

無

 

①0.02’’で感覚領野に到達の皮膚Sはただちに自覚経験(+)

②その後の0.5’’経過でFに向け他情報は密度を上げ、自覚経験が漸次明確化する

③ ①の後の0.2’’経過時点でS皮質(強)を与えられると

0~0.2’’間はそのまま  → Fに到達

0.2’’以後撹乱      → Fに到達

④F以後ここに到達した情報は直ちに順次過去相となる。

自覚経験は明確化への経過中に過去相になる。一定の密度以上(閾値)にならないと自覚経験が始まらない。0.2’’経過で自覚経験はしていても不十分。

⑤自覚経験(-)の結果

元意識は時・空間の枠がない。上図の時間経過は空間枠がないことから、皮膚S地点で時間経過は0でおきる。

0.2’’時点でのS皮質(強)は空間移動をし、皮膚S地点でおきるのと等価になり、且つ時間経過0である。したがって、皮膚Sの自覚経験はおこらず。

皮膚刺戟S後の0.02’’に自覚を体験したなどの時間測定に用いる方法として、ヴィルヘルム・ヴントの複雑時計を応用する。被験者をテレビ画面の前に坐らせる。画面に、時計の秒針のように円を描いて動く点がある。その点は2.56秒で一周する。

何かを感じた時点、或いは指定した事項を想起し何らかの                無題.png07

行動を行った時点を画面上の1、2、3、・・・の点であらわ

してもらう。ここでは、鍼による皮膚への刺激Sを感じた

時点、実際に筋肉を動かした時点である。したがって、感

覚や運動が起こる各々の時点と、視覚による画面上の点の

位置とを照らし合わせ、意識の本質をさぐる。

 

 

更に意識自体が脳活動の産物であるならば意識が生じる前に脳活動(準備電位、誘発電位)が始まり、これを記録できる。次の3種類のデータが得られる。

  1. 決意を意識的に下した時点
  2. 実際に実行した時点
  3. 準備電位が現れた時点

皮質に刺激を与える。0.5秒間の持続があると意識(自覚体験)される。自覚体験の出現を知る方法→ヴントの複雑時計用 いる。(0.5秒未満では自覚体験はおきない)

無題.png09

 

 

 

Sは0点に達し、感覚開始→感覚は皮質により知覚開始

時間経過1、2、・・・漸次知覚が鮮明になる(知覚密度が上る)

閾下知覚をこえると知覚体験(自覚(n))

自覚(n) ・t=0、1、2、・・・n 自覚(n)は自覚が成立すると瞬時に消え、自覚(n+1)が出現、これが反覆継続する(これにより記憶が維持される)。閾下知覚以上になると知覚される(皮質刺戟では0.5秒程度必要∴n=0.5)

○知覚領域の特長

①閾値がある。閾下知覚(一定の密度以下の近く)がある

②知覚領域では感覚情報内容の処理により密度を上げる(編集、単純化、コンパクトなど)。(知覚が自覚として成立するまでに情報の処理が必要)

○自覚(体験)が成立する(=自覚が体験される条件)

自覚(認識がおきること)は、瞬時に現われては消える。だが、認識内容には連続性があり、次の時点に引きつがれる(断続継続)。

断滅すると、その時点で認識は過去のもの(過去相)となり、自覚が継続しないこととなる。

*皮膚刺戟0.02秒後で痛みを自覚(体験)するについては、

上図に基づくと S→0点に達し、自覚(0)から知覚がはじまる。自覚(0)→自覚(n)に到り自覚が完了。自覚(0)~自覚(n)の間、自覚の中心点(痛み)は自覚をうけつぐ。

閾値をこえる時点がS開始後0.02秒であれば、その時点で自覚が鮮明となり体験開始となる。従って、自覚体験の繰り上げ現象はおこらない。

自覚開始時点0.02秒の後、0.2秒経過時点で皮質刺戟Sを与える。この時点で自覚(0)→自覚(n)への断続的継続は中断される。以後はS刺激の情報の断続的継続に入り、Sの情報は引きつがれない。0.02秒~0.2秒間のSの情報の引きつぎは、中断された時点で過去相に入るので自覚されない。故にSの自覚体験はおこらない。

Continue reading

視床の機能を探求 その2  意識論(5)

その2 意識論(5)

そこで、元意識を

 

 

「皮膚を外部から刺す(痛み刺激)と、その刺激は二通りの方法で脳に伝えられる。一つは特殊神経系による迅速な伝達で、意識的自覚は引き起こさないが、刺激がいつ現われたか、意識的自覚に時間情報を刻印する。もう一つは、非特殊系によるゆっくりした伝達で、それが0.5秒の活動(脳活動)につながり、更にそれが意識的自覚を引き起す。」と、「ユーザーイリュージョン・意識という幻想」に記されている。著者のトール・ノーレットランダーシュは1955年にコペンハーゲンに生まれ、ロスキレ大学で環境計画と科学社会学の修士号を取得し、デンマーク工科大学を経て、科学ジャーナリストとして独特の理解のもとに様々な著作を世に出してきた。本書はその集大成とも言える。トール・ノーレットランダーシュは

 

 

 

痛み刺激の伝達新経路は特殊神経系で、視床の後腹側核に接続し、神経線維はここで視床発の神経線維になり、大脳皮質感覚領野皮膚刺激対応部に到る。特殊系とは、皮膚刺激部から視床までをいい、視床から感覚領野までは、非特殊系という定義であるならば、伝達経路に関する記述としては納得できる。これは「ユーザーイリュージョン・意識という幻想」で紹介されているアメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットによる実験が参考になる。A皮膚刺激及び視床刺激では、刺激後0.02秒経過した時点で痛みの意識的自覚が起きた。ところがB感覚領野直接の痛み刺激では、刺激を0.5秒以上持続させないと痛みの意識的自覚がおきない。解剖学的に特殊系伝達路には、非特殊系伝達路は含まれない。

よって、次のことが言える。

第1ステップ:刺戟は特殊系伝達路によって感覚領野に到る。(所要時間0.02秒)

第2ステップ:感覚領野からは非特殊系伝達路にのりかえて感覚皮膚全体に到り自覚が生じる。(所要時間0.5秒)

「二通りの方法で脳に伝えられる」というのは、この意味である。

さて、上記の解釈を“元意識”論の面からみてみる。元意識の面からこの場面における条件は、次のようになる。

  1. 皮膚、視床-感覚皮質(感覚領野含む)系は一様に無相の元意識に浸されている。
  2. 皮膚刺激は、元意識の「場」の特性(時・空間の枠がない)により、経過時間0秒で視床-感覚皮質系に入力される。では、其々の役割はというと、

●視床の役割り:元意識からの入力情報の翻訳・編集・編集→出力

●感覚皮質の役割り:出力の読取・評価(即ち知覚とは、内容を味わうこと)

 

読取りには「質」がある;

充分な読み取り

不十分な読取り

読取りなし

 

皮膚に痛み刺戟が与えられる→(2)の経路にて出力→読取り終了:所要時間0.02秒以内(下図参考)。

 

1)「場」元意識経由で出力→感覚皮質の読取り:所要時間0.02秒以内

2)感覚領野での刺激の直接処理;感覚領野は翻訳・編集機能無し。非日常的処理(内容不明)後、出力→感覚皮質の読取り:所要時間0.5秒

の2つの場合と、1)2)が同時におこる場合とがある(3通り)。

実験結果からは、2)の可能性を選択することなる。実際の場面では感覚領野直接の刺激はおこらない。ノーレットランダーシュは、脳活動と意識的自覚の時間差、脳活動からみた自覚の発生時点よりも早期に皮膚刺激の自覚を経験する現象を主観的経験の繰り上げと表現しているが、“元意識”の面からみると繰り上げはなく、自覚の発生イコール自覚の経験となる。(自覚というのは本来経験がある故で起こるのだが)

更にノーレットランダーシュの言葉から次の問題を解釈すると、

「皮膚を刺激した0.2秒後に皮質(大脳感覚領野皮膚刺激相当部位)に強い刺激を与えると、皮膚への刺戟の方はまったく感じられない」とのこと。

2

 

 

上記の状況から、Aでの刺戟がDにおける脳での自覚発生をおこす以前にCが皮質に与えられたことから、CがDの発生を阻止した。これによってBがおこらなかったと解釈されている。

無題.

 

<誘発電位>

脳波測定から誘発電位が記載されている。誘発電位は皮膚刺激に応じて誘発される。脳波皮質表面からの記録で、A刺激によりBからDに到って終る。Dで自覚が脳に発生し、この時の自覚がBで経験(自覚経験)される。時間を繰り上げての経験と表現される現象である。

この事象の経過中のCで大脳皮質に直接刺激(強い)が与えられた時の誘発電位(これは誘発電位ではないのでは、なにしろ直接刺激なのだから)は、多分異なると思うが、A刺激の時と同じものと仮定すると、これはCで始まりEで終る。

ここで問題を提起する。

Aによる誘発電位は既に始まり経過中である。誘発電位を構成する各神経細胞の活動電位は経過中である。

Cは活動電位継続中の神経細胞の膜に脱分極をおこす電気刺激を与えていることである。脱分極後の不応期をすぎているので、Cに対する脱分極がおきた結果として、誘発電位に相当する電位変化がおきたとしてその経過がCからEである。誘発電位Cは誘発電位Aを後から追う。誘発電位Cが誘発電位Aの経過を完了させないためにはどうすればよいか。その回答は、C刺激は誘発電位(相当)をおこさない。神経細胞機能を一時停止させる。でなければ、誘発電位Aは完了し、Bが起こる。

Continue reading

視床の機能を探求 その2  意識論(4)

元意識は脳によって有相化された。今、この瞬間の意識がそれである。この瞬間の意識は、ひきつづいて有相化された意識の出現とともに脳を離れる。離れると有相に非ざる相(非有相)と化し、過去の意識となる(意識の過去相)。意識の現在相と過去相は互に関連を有し連続する。現在相は過去相を執蔵し、意識の流れを形成する。意識の現在相の出没により、時・空間が現われる。過去相に認識のスポットがあたればそこが記憶として再現される。スポットの力が不足すれば曖昧な記憶として出現する。

では、死ぬとどうなるか?死は通常脳の機能は停止を意味する。元意識の有相化は、その時点で停止し、現在相は過去相となる。この過去相は、その死したるものの個性が残存するかぎり、そこにとどまる。そして、その個性の消滅とともに元意識に内包される。有相の意識に伴う意識の主人も非有相となり、元意識に内包される。死とは肉体にとっては物質的な構成と機能の消滅であるが、非物質である意識は死と共に消滅することはない。

元意識の意識への転化は常に(意識の)主人を伴う。脳Aによる転化では主人Aが、脳Bによる転化は主人Bが出現する。主人Aも主人Bも夫々が「私」なる自我(=命我)であるが、出発は同元の元意識である。脳Aが死すると、その時点で主人Aも意識Aも、総てが脳Aを離れる。非有相の過去相となり、元意識に帰り執蔵される。執蔵されて存続する自我Aは非有相の自我Aである。融通無碍して存続する。いうなれば無相の個として主人は元意識に執蔵される。自我Bも然り。自我A、B、C、・・・の如き存在が、融通無碍して「大我」となる。これが元意識の主人である。このように福来は理解したのではないか。大我=大日如来=粒子=宇宙=魂の行先=神?と言えるか。

以上、元意識はすべての存在(物)に浸透しているのだ。我々は我々という主人が出現する時は、同時に有相の意識が出現していることを体験する。また、この有相の意識も、その主人も、元意識から出発している。となると、我々が通常体験している意識とその主人である我々は、元意識から生命現象を媒介として出現すると言える。これから我々が受精により、その生命現象をスタートさせた時、既にそれに浸透している元意識から我々の意識及び我々は出現しているということが言える。個体発生の初期、いまだ脳の原器もみあたらない発生の段階で、我々の意識及び我々は始まる。それは、我々の意識及び我々といえないかもしれないが、無相或は非有相なるがゆえに、我々はそれを認識できないだけだ。

であるならば、我々の意識及び我々は、我々の個体(生命現象)全体によって出現している。その個体の脳によってのみ、出現しているのではない。では、脳は個体において何を担当しているのか。それは個体の存在する環境において個体を維持するためである。

個体の生命現象は有限である。その終末において個体を構成する各部が同時に終ることはなく時間差がある。その時間差に従って、生命現象は漸次その活動の場を縮小していく。また、それに従って我々の意識及び我々も、その発言の場が縮小し、間もなく周りの者は“我々は「死んだ。」と判断する。“死んだ”、それは我々の判断基準による。我々は通常、最も進展したとされる基準を用いるにいたっている。“意識の座”としている脳の活動状態を基準とすることである。脳が生命活動を終える時を“死”としている。

我々は脳を通じてのみ意識の有相のみを認識することができる。だが、無相の意識(=元意識)は総てに浸透している。確かに生命現象と元意識とは分離したが、元意識はすべての存在物に浸透している。元意識は物質であるその個体(=死体)とは分離していないのだ。従って「石」にも意識は浸透している。石という個体を媒介として、石には、石の意識とその主人が発言しているはずである。更には、我々の意識及び我々の発言は、そのような一般的現象の一つの例であるということに気づく。一般的現象とは次の図のような具合である。%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0

 

 

ゆえに、死は肉体という物質が滅びても、意識はやがて元意識の世界に戻ることができる。これは、終わりではなく、始まりの第一歩である。

人間、誰しも死は怖い。この恐怖感がなければ、生物はとっくに滅んでいたに違いない。尊い感覚である。だが、我々は死する運命にあったとしても、元意識に合流するのであり、無暗に恐れおののくことはない。いつかは我々の愛すべき家族も知人も、命あるすべてが元意識に戻ってくるからだ。

人は生きていると、様々な喜怒哀楽を味わう。楽しいばかりではない。なかには苦悩や悲しみに満ちた人生を送る者もいるであろう。また、なかには病魔、或いは事故や戦争などの不幸で、望まぬ死を受け入れなければならない場合もある。現実は、ときとして冷酷な姿を見せる。有相の意識は主人だけではなく、周りの者まで深い悲しみの淵に落としてしまう。

日頃から注意していても、台風や地震などの天災は情け容赦ない仕業をとる。生後数カ月、それどころか産声すらあげずにあの世に旅立ってしまう赤子もいる。この子らに何の罪があろうことか。有相の意識の悲哀は尽きることがない。

せめてもの救いは、元意識の世界があることだ。お花畑を過ぎると、そこは元意識の世界、我々の有相の意識では容易に感知できないが、すべてにつながりがあるのなら、その方法が無きにしも非ず。それが福来の研究の究極的な姿か。元意識の世界、アレクサンダー博士の臨死体験の折、あらわれた光り輝く荘厳な世界でなくとも、少なくともテイラー博士のように平和で安寧な心が得られるかもしれない。

更に石の有相の意識を考えれば、我々の縁やゆかりのあるものばかりではなく、この世の生きとし生けるもの大地も空気も水にも尊厳の気持ちをもって接することが肝要である。この世の森羅万象、そのすべては同源、日々敬愛の心をもって接すべし。宇宙は我々にあり、我々は宇宙にある。135億光年彼方にも我々の目があり耳があり、指もあるのだ。

Continue reading