視床の機能を探究 その3 活脳鍼を応用した瞑想法(2)

実際

自己催眠から瞑想に至る方法

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順序

 

  1. 我々の身体は特定の方法[何かを見たり(V)、自問自答したり(A)、息をする(K)]によって、生理的な「リラクセーション反応」を起こすようにできている。これからこの3つを同時に使って「リラックス」します。
  2. 足元をそろえて、気楽な姿勢で座ります。
  3. 視点は目の高さよりやや高めの位置、中心点(・)に注視集中する。
  4. (5秒後)目をリラックスする → 周辺視野に周囲の壁が見えます(V)。
  5. (この時、呼吸パターンに変化が必ずおきているので)息を吸う時の2倍の長さで息を吐くようにする(K)。(…呼吸の変化を増大させることになる。)
  6. 3呼吸後、目を閉じる、周辺視野のイメージを頭に描く。
  7. 「落ち着く(リラックス)」という言葉をゆっくり、自分に言い聞かせるように繰り返す(A)。 → その言葉に注意を集中。
  8. 5秒後、暗示を与える:心がオープンになり、安らかな感じが全身にみなぎる。
  9. 深化の暗示

(1)源泉の黄金の光のエネルギーが目の前に満ち溢れているイメージをしてください。

黄金の光は、エネルギーの中心に向け動いています。

(2)その光の流れに自分自身をのせましょう。

・流れにのるとエネルギーの光の中に吸い込まれていきます。

・黄金のエネルギーの中をゆれ動いていきます。

・エネルギーに融け込み、エネルギーの響きを全身で味わいましょう。そして

・エネルギーそのものになりましょう。自分自身の体はなくなっています。

(3)十分に体験したら、深呼吸して下さい。

エネルギーを自分の心の中に向けます。

心と脳がエネルギーのかたまりとなり黄金の光を発して輝き出します。

(4)エネルギーは膨れ上がり、身体の隅々まで広がります。

全身の総ての細胞一つ一つにしみわたります。

全身がいきいきとし活気にあふれます。

(5)十分にあふれるまで続けましょう。

その状態のままで自分のゴールを一つだけイメージして目の前におきましょう。

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視床の機能を探究 その3 活脳鍼を応用した瞑想法(1)

瞑想とは、殆どの宗教で取り入れられている精神修行の一貫で、頭脳明晰で安寧な精神、安定した感情、慈愛や慈悲に満ちた心を養うことを目的にしている。また、瞑想は特別な器具や服装もいらず、場所も選ばない。外からの刺激が過度でなく、緊張しにくい場所を自ら選定するだけで良い。現在広く行われている瞑想は、3方法に大別される。そのひとつはフォーカス・アテンション瞑想と呼ばれ、意識を静かで深い呼吸サイクルを繰り返し、それに伴って動く腹部や空気が鼻を通過する感覚に注意を向け続けることで、脳裏に浮かんで来る思考を抑制させる。つまり、集中力を養ったり、心を空にしたりすることが目的となる。本格的な瞑想に入るための準備段階と言える。背外側前頭前野の活性化があらわれると言う。

もうひとつはマインドフルネス瞑想で、脳裏に浮かぶ思考に執着せず、次々と流していくことで、客観的に自己を観察する能力を養うことが目的となる。自分の感情や考え方、痛みなどの感覚に対して冷静な判断ができるようにし、それに囚われない精神力を身に付けるのだ。これにより、ストレスの多い環境でも、ストレッサーとして認識されずに済むようになる。うつや神経症などの精神神経疾患の改善をはじめ、進行ガンによる疼痛の軽減、創造力や直感力の向上にも役立つと言われている。熟練すると、右脳の活性化と不安に関係する島皮質や扁桃体の活動低下が認められる。

そして最も難しいのが3番目の瞑想で慈悲や慈愛の気持ちを持ち、利他的・他愛的な態度を養うのが目的となる。自分自身の幸せからこの世に生きとし生けるもの全ての幸せを願って瞑想することで、万物創造の源や無限の愛、無限の意識が感じられると言う。死後の世界の扉を開くことにも繋がる。先に紹介したヨーガや禅宗、真言宗などで用いられている手法である。

チベットでは、数日から数週間、心臓も呼吸も止めて、臨死体験を経験する瞑想法をトゥクタムと呼ぶ。現代医学では到底理解できない現象であるが、実際修行を積んだチベットの高僧やインドのヨーガの行者の間で行われている。瞑想の究極的な到達点とされるが、そう簡単には会得ものではない。

そこで、これら3つの瞑想法の助けになるように活脳鍼の併用を勧める次第である。

方法

①活脳鍼の任意のツボに円皮鍼を貼り付ける。

具体的には鼻と唇の間、右のこめかみ、左のこめかみと順に貼り付ける。

 

②飲水

わずかに冷えた水を口に含む。味わいながら飲み込む。あと味も味わう。食道をつたわり胃に流れ込む感覚を得る。

 

③内臓の叫びを感じ取る

そのご腹式呼吸。胃腸の動き、心臓の鼓動、呼吸音、手足の温感、筋肉のほぐれなど、静かな内臓の叫びを感じ取る。

 

そしてリラックスしたら、瞑想にはいる。

気持ちの落ち着きぐあいは色調でも調べられる。

 

向かって左側の緑円を20秒間凝視する。

④右側の白円を見て、ピンクあるいは赤残像が確認される時間(秒)をカウントする。

⑤残像がない、あるいは5秒以内に残像が消えれば、そのまま瞑想に移行する。

⑥残像が6秒以上だったら、貼り付けた円皮鍼の上に人差し指を押し当て、5秒間圧迫刺激を与える。

⑦その後、腹式呼吸を2~3分行い、再度②を行う。

⑧それでも残像が④にならなければ、その日は諦めるか、一定時間経過した後に再度①~⑦を繰り返す。

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視床の機能を探求 その2  意識論(7)

2無題

①S情報は特殊系(情報伝達速度は②より速いという) ②よりも①の方が先を行く。

②視覚情報は非特殊系

①が中断されれば②は中断される。

*当課題において0.2秒時点での皮質への強刺戟Sは記憶のよび出しに障害を与えていないのであろうか。“視覚情報を記憶しておく”のであるのだから。

ユーザー・イリュージョン・意識という幻想には無意識を論じている文言がある。フロイドやユングの仮説に閾下知覚の影響

  • 人は覚醒時に受けた閾下刺激を夢の中で思い起こせる。
  • 無意識には閾下に入ったあらゆる心的要素が含まれる―閾下とは、有意識に入って来ないと解釈する。
  • 意識に識別できない二つの覚醒の差異を生体機能は区別できる。
  • 世界との無意識の相互作用と意識とが均衡を保つときに、意識には価値がある。
  • 意識ある<私>と無意識の<自分>の共存。

閾下知覚とは意識にのぼらない、知覚にのぼらない、自己の認識にのぼらない、即ち自覚しないということである。

元意識論の立場からこれを観ると、元意識から、認識/知覚までの流れは次のように描ける。

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元意識(無相、様々な可能を内包)は視床・大脳皮質系により転換され有相の意識として出力され、これが認識となる。

視床・大脳皮質系の働きは、無相を翻訳編集し非有相(の意識、即ち情報)とし、この非有相を読取り、有相(の意識、認識可能の情報)として出力すること。

出力された有相は直ちに過去相となり非有相となる。

無意識とは無自覚のこと。従って上図において、有相の意識のうちの自覚されたもの以外は総て無意識である。

 

無相の元意識、非有相の意識、自覚以外の有相の意識、過去相の意識がそれである。無意識には様々な可能性・エネルギーがあることになる。

ユーザー・イリュージョン・意識という幻想には意識の起源を解説している項がある。

ジュリアン ジェインズは神々の沈黙の一説を借りている。

  • 意識ある<私>は、人が最も身近に経験するものだ。・・・だが、<私>自体はどこから生まれたのだろう。
  • 意識と<私>という概念は、歴史とともに創られたものであり、それゆえに歴史とともに変化する。
  • 彼の考えはこうだ。大昔、3000年以上前には、意識も、<私>という概念も、人間が自分の内に心を持っているという認識もなかった。(p380)
  • 人間観における、古代人と私たち現代人との根本的な相違は、古代人の頭の中で独立した内観活動が行なわれていなかった点にある。古代人には意識もなければ決断もなかった。
  • <二分心>が言語の発展により崩壊し、文化が激変し、それが意識の起源となった。

二分心:人間の心は二分されていた。・・・左右の大脳半球に呼応して心も二つの部屋に分かれていた。右脳で行なわれる非 言語的活動はすべて、人の頭の中で聞こえる話し声(-幻聴か)の形をとって、左脳へ伝達された。・・・古代人たちは自らの中で何をなすべきかを告げる神々の声を聞いた。

これらは我々のなれ親しむ意識に関するイメージ、或は今までの元意識論と異なっている。インド哲学の自我思想において、周知の如く西暦紀元以前に形而上学的思弁が発達し、我に関しても幽玄な思想があらわれたとある。

意識のとらえ方のちがいによって、意識の起源も異なってくる。インドでは定説なし――無始無終、有始無終、有始有終、である。元意識論では、個々の意識は無相であるが、可能の「場」である。無相中に大我を蔵する――無相と無相の大我は、どのようにして、いつ出現したのかは、わからない。不可思議である。とりあえず無始無終となる。総てのビッグバーンを超えているとでも言っておうこうか。

有相の意識は元意識の内容するエネルギーが具体的に有相として出力されたもので、用途は限定され、その有相の意識の主人が用途に従う形となる。これを逆にしたい。主人が予め用途を定め、それに適う有相の意識を得たい。それにはどうすれば良いか?一案として次の方策を提示する。

無相から有相へは、視床-大脳皮質系の働きによる。日常、我々はこの働きを自覚することはできていない。解剖学的にも両者間には神経線維の相互乗り入れがあり、視床なくして皮質なし、その逆もまた真なりと云われている。

そこで、幾分なりとも自覚をもって、この働きに割って入るとすれば、対象は視床と大脳皮質の機能を如何にコントロールできるかが課題となる。

では、その手順であるが、次のように考える。

 

1)情報量の多い神経回路への乗り入れである。先ずは情報の総てを停止し、情報量ゼロにしてから目的とする神経回路に単独で静かに入る。その神経回路に、「無相」から目的とする非有相を誘導する。神経回路は自ずと有相化につながる。

2)情報の遮断は、瞑想を利用する。絶え間なく出没する想念を静めるために伝統的に用いられている方法がいくつかある。それを用いる。出没が絶えてしばらくすると自動的に「私」(自我)を直覚する。

3)「目的」を明確なイメージで提示する。

4)そのままを保つ。

 

予め留意すること:

1.我々の尊重する科学的情報(因と果の間にある縁を主観的にではなく明示する学)を完全に無とする。

2.あらゆる疑念の意識(非有相を含めて)を完全に無とする。

3.自信(自己を信ずる)は、有るでもなく、有らざるでもなく、但し無ではない、であること。

4. 五感からの情報を鋭く感じ取る。

5.意気込むのでもなく、意気込まざるでもなくして試みる。

 

以上である。

 

これは既におこなわれている。仏教、ヨーガ、世界的な規模で浸透しているマインドフルネスなどの瞑想である。科学者でも哲学者でもない人がが、「智慧」を得ている。加えるに、仏教では慈悲を明確な目的としている。これは、いかんとも我々には荷が重い。補助手段が必要であるというのであれば、自己催眠を補助として瞑想する。そして最も有効と思われるのが、活脳鍼を補助として瞑想する方法である。活脳鍼は、特殊系神経伝達路により視床(後腹側核)に及ぶ。併用により、視床の活動を増幅させる。

 

無相からの志向を有相の意志として利用することができるのではないかと思っている。活脳鍼の刺激は三叉神経を介して、視床に運ばれる(無相の意識。更に視床からは別の神経に乗り換え、大脳皮質に伝わる(有相の意識)。

 

視床に伝わった刺激は大脳皮質に届くことになるが、その一方視床下部にも伝わり、反射的に自律神経系や内分泌系といった情動系に刺激を与える。つまり視床下部は内臓反射を起こさせるのだ。その内臓反射による情報は、視床に戻り大脳皮質に運ばれるが、その過程で大脳辺縁系が刺激の価値判断を行うので、更に高度な情報処理がなされる。必要に応じた取捨選択が行われるのだ。つまり、

透覚、幻化、力化、物質化はともあれ、第6感や第7感を得る手段のひとつとして役立つのではないか。

以上、活脳鍼を補助として瞑想することを勧める。活脳鍼とは顔面への鍼治療である。鍼を刺しとどめていると、その刺激は三叉神経を介して特殊系神経伝達路により視床(後腹側核)に及ぶ。三叉神経は脳神経であり、その刺激は手足や体幹部に与えたものより強い。瞑想と併用することにより、視床の活動を増幅させられるので、上述したように可能性は十分にあると思う。三木博士の見解が正しいとすれば、胃腸に宿る宇宙の波動が元意識としたら理解しやすい。

多くの情報は視床や大脳辺縁系だけで処理され、意識には上らない。無意識の中に仕舞い込まれてしまう。

この夏、エアコンがこわれた。冷えない、寝苦しくておきる。台所に出てラジオのスイッチを入れる。NHKラジオ深夜便だが、もう夜明けが近い。聞くともなく聞く。ニューギニア鎮魂の話。気になり、後日書籍を購入した。

 

      昭和62.6.17.西部ニューギニア西端ソロンの町

      ニューギニア慰霊団に、ソロン県知事が語った話。

      県知事官舎は元日本軍高射砲陣地の丘跡に建っている。

      四年ほど前、この丘を二人の日本人が訪れた。一人は元

      高射砲兵、一人はこの丘で戦没した兵士の妹。この官舎

      の裏庭の片隅の岩陰をみつけそこを掘りおこすと頭蓋骨

      が一柱出てきた。

      遺体はそこで供養された。

      それからは長い間、夜になると現われていた幽霊が消え

      た。この官舎の裏庭に、日本兵の幽霊が出るのを以前か

      ら、土地の人たちは目撃していたのである。彼らは戦争

      を全く知らない世代で、写真でしか昔の軍装の日本兵の

      姿は知らないのである。

以上は、三橋國民著「鳥の詩 死の島からの生還」角川ソフィア文庫p.133からの抜粋だ。

この話、科学者のなかには、それは気(=錯視)のせいだ、という人がいるかもしれないが、納得のいかない死をとげ、そこに気(=意識)が残ることは、充分にあり得る。ましてや、そこには頭蓋骨が残っていたのだから

 

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瞑想はできるだけストレスのない安楽な環境に整えるのがコツである。

水垢離や滝行などつらい環境で修行する必要はない。

深く入れた場合には、体が自然に一定のリズムで揺れだすが、これは自分の鼓動によるものだ。本人の生体リズムがあらわれているのだから、無理して動きをとめる必要はない。座禅では微動だにしてはいけないようだが、極端に制御を失うことがないかぎり、むしろ歓迎すべき現象である。
精神集中すれば、少しくらいの騒音は聞こえなくなるが、集中する前の騒音はかなりの障害になる。静かな室内で、エアコンが間接的に効いているくらいが理想である。BGMは使わない。腕時計やネクタイ、アクセサリーなどは外し、ゆったりとした服に着替える。携帯電話の電源は当然、切っておく。

環境が整ったら、胡座を組んで呼吸をととのえる。正座すると脚が痺れるので、座布団でもしいて、負担にならない程度に背筋を伸ばす。頭を体から離すような感じで頸を伸ばすと脳への血流がスムースになる。

食事の直後はあまりよくない。胃が血液を欲しがっている状態では、脳へのエネルギー供給に無理がでる。お茶やコーヒーは頭がすっきりするように思われるが、カフェインには脳への血流を妨げる作用が確認されている。コーヒー2杯で、脳に流れ込む血液の量は15%も低下するのだ。
肉体や雑念に酸素を浪費させてはいけない。無駄な思考や感情は酸素を大量に消費する。

もともと空間を超えた意志の伝達は、人類が言葉を覚える前からの能力なので、大脳皮質に酸素をつかわせないことだ。脳の発生の系統的に一番古く、本能をつかさどる役目の、視床下部に血液が充分いきわたることが重要になる。

宇宙飛行士たちの多くが、神秘的な体験をしたことはよく知られている。

月面のどこに目的の石があるかわかったり、訓練のとき以上に意志の疎

通がうまくいって、まるでテレパシーで交信しあっているようだったと伝え

られている。アポロ計画当時までは、まだロケット内では純酸素が使用さ

れていた。地上の1/4と気圧は低いから、脳血管の収縮で酸素中毒に

なる危険はきわめて少ない。ゆっくりと何日間も純酸素を呼吸し続けれ

ば、脳は根底からリフレッシュするのだろう。テレパシーのような現象が

起こっても不思議ではない。

呼吸は血液中の炭酸ガスが自律的にコントロールしているが、交感神経系、つまり自分の意識でもコントロールできる唯一のものだ。呼吸の安定(調息)は避けて通れない技術である。
目を半眼にして視覚情報を減らし、ゆっくりと深く息を吸い、できるだけゆっくり時間をかけて吐きだす。吐くときに、呼気といっしょに頭のなかが空白になっていく感覚を追及していく。このスーっと抜けていく感じ、落ちていく感じが長く続くように、雑念を排除することだけに集中する。集中というよりも、雑念からの解放である。
呼吸が調うにしたがって、外界から離れた精神世界に入っていける。馴れないうちは雑念が湧いてきて「空」の感覚をつかむのが難しい。このようなときには、頭のなかで数をかぞえると効果があがる。

下から数え上げていくなら10までにして、このサイクルを繰り返しながら精神集中をはかる。いつのまにか10以上まで数えてしまったら、雑念にとらわれている証拠である。呼吸のリズムにあわせて、ゆっくりと10まで数え、うまくいったら繰り返す。数えすぎているのに気がついたら、やりなおしながら段々と深みに潜行していく。

反対に10からカウントダウンしていけば、マイナスになる段階で気がつくという利点がある。0から10にジャンプするときに若干、不自然な感じがあるが、雑念にとらわれっぱなしになる危険はない。10カウント以内に入り込めるならこちらの方がスムースだ

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視床の機能を探求 その2  意識論(6)

A刺激は元意識、視床・大脳皮質系により有相の意識(情報内容の認識或は知覚)となり自覚がおきる。所要時間0.02秒、但し直ちに現在相から過去相となり非有相となる。即ち、自覚が消滅する。従って客観的記録を残す必要がある。

A刺戟から0.2秒後、視床・皮質系の大脳皮質感覚領野の相当部位に強力な電気刺激を与える。視床・大脳皮質系は機能停止(一時的)。

機能停止と共に現在進行中の有相化されつつある意識も含めて、今の現在相は過去相となり非有相となる。自覚は消える。

不思議なことに客観的記録も有相化がおこらず知覚されない。では、客観的記録は在るのか、無いのか。

このように、本実験の目的は、意識とはどんなものなのか、その本態を知覚するためのもののようである。ユーザー・イリュージョン・意識という幻想には“ユーザー・イリュージョンとしての意識”という項がある。意識があるかぎり世界をじかに体験はできないと言う。その中に「瞑想はユーザーもイリュージョンもない状態ということもできるだろう」とある。

客観的記録の「客観」とは主観に対する言葉(観念)である。主観とは意識、主観がなければ客観もない。意識が消えれば、主観が消え、客観が消える。意識が消えるとは無相となること。「客観的記録も消える」などと笑うことなかれ。

 

 

 

無

 

①0.02’’で感覚領野に到達の皮膚Sはただちに自覚経験(+)

②その後の0.5’’経過でFに向け他情報は密度を上げ、自覚経験が漸次明確化する

③ ①の後の0.2’’経過時点でS皮質(強)を与えられると

0~0.2’’間はそのまま  → Fに到達

0.2’’以後撹乱      → Fに到達

④F以後ここに到達した情報は直ちに順次過去相となる。

自覚経験は明確化への経過中に過去相になる。一定の密度以上(閾値)にならないと自覚経験が始まらない。0.2’’経過で自覚経験はしていても不十分。

⑤自覚経験(-)の結果

元意識は時・空間の枠がない。上図の時間経過は空間枠がないことから、皮膚S地点で時間経過は0でおきる。

0.2’’時点でのS皮質(強)は空間移動をし、皮膚S地点でおきるのと等価になり、且つ時間経過0である。したがって、皮膚Sの自覚経験はおこらず。

皮膚刺戟S後の0.02’’に自覚を体験したなどの時間測定に用いる方法として、ヴィルヘルム・ヴントの複雑時計を応用する。被験者をテレビ画面の前に坐らせる。画面に、時計の秒針のように円を描いて動く点がある。その点は2.56秒で一周する。

何かを感じた時点、或いは指定した事項を想起し何らかの                無題.png07

行動を行った時点を画面上の1、2、3、・・・の点であらわ

してもらう。ここでは、鍼による皮膚への刺激Sを感じた

時点、実際に筋肉を動かした時点である。したがって、感

覚や運動が起こる各々の時点と、視覚による画面上の点の

位置とを照らし合わせ、意識の本質をさぐる。

 

 

更に意識自体が脳活動の産物であるならば意識が生じる前に脳活動(準備電位、誘発電位)が始まり、これを記録できる。次の3種類のデータが得られる。

  1. 決意を意識的に下した時点
  2. 実際に実行した時点
  3. 準備電位が現れた時点

皮質に刺激を与える。0.5秒間の持続があると意識(自覚体験)される。自覚体験の出現を知る方法→ヴントの複雑時計用 いる。(0.5秒未満では自覚体験はおきない)

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Sは0点に達し、感覚開始→感覚は皮質により知覚開始

時間経過1、2、・・・漸次知覚が鮮明になる(知覚密度が上る)

閾下知覚をこえると知覚体験(自覚(n))

自覚(n) ・t=0、1、2、・・・n 自覚(n)は自覚が成立すると瞬時に消え、自覚(n+1)が出現、これが反覆継続する(これにより記憶が維持される)。閾下知覚以上になると知覚される(皮質刺戟では0.5秒程度必要∴n=0.5)

○知覚領域の特長

①閾値がある。閾下知覚(一定の密度以下の近く)がある

②知覚領域では感覚情報内容の処理により密度を上げる(編集、単純化、コンパクトなど)。(知覚が自覚として成立するまでに情報の処理が必要)

○自覚(体験)が成立する(=自覚が体験される条件)

自覚(認識がおきること)は、瞬時に現われては消える。だが、認識内容には連続性があり、次の時点に引きつがれる(断続継続)。

断滅すると、その時点で認識は過去のもの(過去相)となり、自覚が継続しないこととなる。

*皮膚刺戟0.02秒後で痛みを自覚(体験)するについては、

上図に基づくと S→0点に達し、自覚(0)から知覚がはじまる。自覚(0)→自覚(n)に到り自覚が完了。自覚(0)~自覚(n)の間、自覚の中心点(痛み)は自覚をうけつぐ。

閾値をこえる時点がS開始後0.02秒であれば、その時点で自覚が鮮明となり体験開始となる。従って、自覚体験の繰り上げ現象はおこらない。

自覚開始時点0.02秒の後、0.2秒経過時点で皮質刺戟Sを与える。この時点で自覚(0)→自覚(n)への断続的継続は中断される。以後はS刺激の情報の断続的継続に入り、Sの情報は引きつがれない。0.02秒~0.2秒間のSの情報の引きつぎは、中断された時点で過去相に入るので自覚されない。故にSの自覚体験はおこらない。

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視床の機能を探求 その2  意識論(5)

その2 意識論(5)

そこで、元意識を

 

 

「皮膚を外部から刺す(痛み刺激)と、その刺激は二通りの方法で脳に伝えられる。一つは特殊神経系による迅速な伝達で、意識的自覚は引き起こさないが、刺激がいつ現われたか、意識的自覚に時間情報を刻印する。もう一つは、非特殊系によるゆっくりした伝達で、それが0.5秒の活動(脳活動)につながり、更にそれが意識的自覚を引き起す。」と、「ユーザーイリュージョン・意識という幻想」に記されている。著者のトール・ノーレットランダーシュは1955年にコペンハーゲンに生まれ、ロスキレ大学で環境計画と科学社会学の修士号を取得し、デンマーク工科大学を経て、科学ジャーナリストとして独特の理解のもとに様々な著作を世に出してきた。本書はその集大成とも言える。トール・ノーレットランダーシュは

 

 

 

痛み刺激の伝達新経路は特殊神経系で、視床の後腹側核に接続し、神経線維はここで視床発の神経線維になり、大脳皮質感覚領野皮膚刺激対応部に到る。特殊系とは、皮膚刺激部から視床までをいい、視床から感覚領野までは、非特殊系という定義であるならば、伝達経路に関する記述としては納得できる。これは「ユーザーイリュージョン・意識という幻想」で紹介されているアメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットによる実験が参考になる。A皮膚刺激及び視床刺激では、刺激後0.02秒経過した時点で痛みの意識的自覚が起きた。ところがB感覚領野直接の痛み刺激では、刺激を0.5秒以上持続させないと痛みの意識的自覚がおきない。解剖学的に特殊系伝達路には、非特殊系伝達路は含まれない。

よって、次のことが言える。

第1ステップ:刺戟は特殊系伝達路によって感覚領野に到る。(所要時間0.02秒)

第2ステップ:感覚領野からは非特殊系伝達路にのりかえて感覚皮膚全体に到り自覚が生じる。(所要時間0.5秒)

「二通りの方法で脳に伝えられる」というのは、この意味である。

さて、上記の解釈を“元意識”論の面からみてみる。元意識の面からこの場面における条件は、次のようになる。

  1. 皮膚、視床-感覚皮質(感覚領野含む)系は一様に無相の元意識に浸されている。
  2. 皮膚刺激は、元意識の「場」の特性(時・空間の枠がない)により、経過時間0秒で視床-感覚皮質系に入力される。では、其々の役割はというと、

●視床の役割り:元意識からの入力情報の翻訳・編集・編集→出力

●感覚皮質の役割り:出力の読取・評価(即ち知覚とは、内容を味わうこと)

 

読取りには「質」がある;

充分な読み取り

不十分な読取り

読取りなし

 

皮膚に痛み刺戟が与えられる→(2)の経路にて出力→読取り終了:所要時間0.02秒以内(下図参考)。

 

1)「場」元意識経由で出力→感覚皮質の読取り:所要時間0.02秒以内

2)感覚領野での刺激の直接処理;感覚領野は翻訳・編集機能無し。非日常的処理(内容不明)後、出力→感覚皮質の読取り:所要時間0.5秒

の2つの場合と、1)2)が同時におこる場合とがある(3通り)。

実験結果からは、2)の可能性を選択することなる。実際の場面では感覚領野直接の刺激はおこらない。ノーレットランダーシュは、脳活動と意識的自覚の時間差、脳活動からみた自覚の発生時点よりも早期に皮膚刺激の自覚を経験する現象を主観的経験の繰り上げと表現しているが、“元意識”の面からみると繰り上げはなく、自覚の発生イコール自覚の経験となる。(自覚というのは本来経験がある故で起こるのだが)

更にノーレットランダーシュの言葉から次の問題を解釈すると、

「皮膚を刺激した0.2秒後に皮質(大脳感覚領野皮膚刺激相当部位)に強い刺激を与えると、皮膚への刺戟の方はまったく感じられない」とのこと。

2

 

 

上記の状況から、Aでの刺戟がDにおける脳での自覚発生をおこす以前にCが皮質に与えられたことから、CがDの発生を阻止した。これによってBがおこらなかったと解釈されている。

無題.

 

<誘発電位>

脳波測定から誘発電位が記載されている。誘発電位は皮膚刺激に応じて誘発される。脳波皮質表面からの記録で、A刺激によりBからDに到って終る。Dで自覚が脳に発生し、この時の自覚がBで経験(自覚経験)される。時間を繰り上げての経験と表現される現象である。

この事象の経過中のCで大脳皮質に直接刺激(強い)が与えられた時の誘発電位(これは誘発電位ではないのでは、なにしろ直接刺激なのだから)は、多分異なると思うが、A刺激の時と同じものと仮定すると、これはCで始まりEで終る。

ここで問題を提起する。

Aによる誘発電位は既に始まり経過中である。誘発電位を構成する各神経細胞の活動電位は経過中である。

Cは活動電位継続中の神経細胞の膜に脱分極をおこす電気刺激を与えていることである。脱分極後の不応期をすぎているので、Cに対する脱分極がおきた結果として、誘発電位に相当する電位変化がおきたとしてその経過がCからEである。誘発電位Cは誘発電位Aを後から追う。誘発電位Cが誘発電位Aの経過を完了させないためにはどうすればよいか。その回答は、C刺激は誘発電位(相当)をおこさない。神経細胞機能を一時停止させる。でなければ、誘発電位Aは完了し、Bが起こる。

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視床の機能を探求 その2  意識論(4)

元意識は脳によって有相化された。今、この瞬間の意識がそれである。この瞬間の意識は、ひきつづいて有相化された意識の出現とともに脳を離れる。離れると有相に非ざる相(非有相)と化し、過去の意識となる(意識の過去相)。意識の現在相と過去相は互に関連を有し連続する。現在相は過去相を執蔵し、意識の流れを形成する。意識の現在相の出没により、時・空間が現われる。過去相に認識のスポットがあたればそこが記憶として再現される。スポットの力が不足すれば曖昧な記憶として出現する。

では、死ぬとどうなるか?死は通常脳の機能は停止を意味する。元意識の有相化は、その時点で停止し、現在相は過去相となる。この過去相は、その死したるものの個性が残存するかぎり、そこにとどまる。そして、その個性の消滅とともに元意識に内包される。有相の意識に伴う意識の主人も非有相となり、元意識に内包される。死とは肉体にとっては物質的な構成と機能の消滅であるが、非物質である意識は死と共に消滅することはない。

元意識の意識への転化は常に(意識の)主人を伴う。脳Aによる転化では主人Aが、脳Bによる転化は主人Bが出現する。主人Aも主人Bも夫々が「私」なる自我(=命我)であるが、出発は同元の元意識である。脳Aが死すると、その時点で主人Aも意識Aも、総てが脳Aを離れる。非有相の過去相となり、元意識に帰り執蔵される。執蔵されて存続する自我Aは非有相の自我Aである。融通無碍して存続する。いうなれば無相の個として主人は元意識に執蔵される。自我Bも然り。自我A、B、C、・・・の如き存在が、融通無碍して「大我」となる。これが元意識の主人である。このように福来は理解したのではないか。大我=大日如来=粒子=宇宙=魂の行先=神?と言えるか。

以上、元意識はすべての存在(物)に浸透しているのだ。我々は我々という主人が出現する時は、同時に有相の意識が出現していることを体験する。また、この有相の意識も、その主人も、元意識から出発している。となると、我々が通常体験している意識とその主人である我々は、元意識から生命現象を媒介として出現すると言える。これから我々が受精により、その生命現象をスタートさせた時、既にそれに浸透している元意識から我々の意識及び我々は出現しているということが言える。個体発生の初期、いまだ脳の原器もみあたらない発生の段階で、我々の意識及び我々は始まる。それは、我々の意識及び我々といえないかもしれないが、無相或は非有相なるがゆえに、我々はそれを認識できないだけだ。

であるならば、我々の意識及び我々は、我々の個体(生命現象)全体によって出現している。その個体の脳によってのみ、出現しているのではない。では、脳は個体において何を担当しているのか。それは個体の存在する環境において個体を維持するためである。

個体の生命現象は有限である。その終末において個体を構成する各部が同時に終ることはなく時間差がある。その時間差に従って、生命現象は漸次その活動の場を縮小していく。また、それに従って我々の意識及び我々も、その発言の場が縮小し、間もなく周りの者は“我々は「死んだ。」と判断する。“死んだ”、それは我々の判断基準による。我々は通常、最も進展したとされる基準を用いるにいたっている。“意識の座”としている脳の活動状態を基準とすることである。脳が生命活動を終える時を“死”としている。

我々は脳を通じてのみ意識の有相のみを認識することができる。だが、無相の意識(=元意識)は総てに浸透している。確かに生命現象と元意識とは分離したが、元意識はすべての存在物に浸透している。元意識は物質であるその個体(=死体)とは分離していないのだ。従って「石」にも意識は浸透している。石という個体を媒介として、石には、石の意識とその主人が発言しているはずである。更には、我々の意識及び我々の発言は、そのような一般的現象の一つの例であるということに気づく。一般的現象とは次の図のような具合である。%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0

 

 

ゆえに、死は肉体という物質が滅びても、意識はやがて元意識の世界に戻ることができる。これは、終わりではなく、始まりの第一歩である。

人間、誰しも死は怖い。この恐怖感がなければ、生物はとっくに滅んでいたに違いない。尊い感覚である。だが、我々は死する運命にあったとしても、元意識に合流するのであり、無暗に恐れおののくことはない。いつかは我々の愛すべき家族も知人も、命あるすべてが元意識に戻ってくるからだ。

人は生きていると、様々な喜怒哀楽を味わう。楽しいばかりではない。なかには苦悩や悲しみに満ちた人生を送る者もいるであろう。また、なかには病魔、或いは事故や戦争などの不幸で、望まぬ死を受け入れなければならない場合もある。現実は、ときとして冷酷な姿を見せる。有相の意識は主人だけではなく、周りの者まで深い悲しみの淵に落としてしまう。

日頃から注意していても、台風や地震などの天災は情け容赦ない仕業をとる。生後数カ月、それどころか産声すらあげずにあの世に旅立ってしまう赤子もいる。この子らに何の罪があろうことか。有相の意識の悲哀は尽きることがない。

せめてもの救いは、元意識の世界があることだ。お花畑を過ぎると、そこは元意識の世界、我々の有相の意識では容易に感知できないが、すべてにつながりがあるのなら、その方法が無きにしも非ず。それが福来の研究の究極的な姿か。元意識の世界、アレクサンダー博士の臨死体験の折、あらわれた光り輝く荘厳な世界でなくとも、少なくともテイラー博士のように平和で安寧な心が得られるかもしれない。

更に石の有相の意識を考えれば、我々の縁やゆかりのあるものばかりではなく、この世の生きとし生けるもの大地も空気も水にも尊厳の気持ちをもって接することが肝要である。この世の森羅万象、そのすべては同源、日々敬愛の心をもって接すべし。宇宙は我々にあり、我々は宇宙にある。135億光年彼方にも我々の目があり耳があり、指もあるのだ。

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視床の機能を探求 その2  意識論(3)

“私が知る”と認識(自覚)した時、「私」はそれを自覚している自己であることが解る。この認識は“気づき(直感)”である。知覚は器官を媒介として到るということにこだわれば、この認識は“私、即ち自己”と直感(直覚)されたことからして、知覚とは異なるものである。ここで「私」はこの自己以外に見あたらず、「私」は意識に内包されて在り、意識を動かす主人である。

つまり、脳は無相の元本の内容を有相の「意識」するということを行うのだ。元本の有相化は、元本に内包される主人の有相化を伴うということだ。有相の意識は、脳の湧き出てきた答えを形に変える。我々の行動は「思う」ことから始まる。

有相の意識とともにあらわれる有相の「私」は、元本の中に融通無碍して在ったものである。Aの脳により有相化されればAの「私」となり、Bの脳により有相化されればBの「私」となる。元本の浸透する夫々の脳の違いによって、夫々の「私」は特色を帯びていく。様々に展開する有相化された意識、それと共に、様々な色あいに発展していく「私」、これらを元に逆のぼれば個々の脳に浸透する共通の広大な元本(以下元意識)に到達する。

この元意識の中に、夫々の「私」が融通無碍して在るとなると、個々の「私」を一体化してもよろしかろうということになる。この一本化したものを「大我」、個々の「私」を「小我」あるいは「命我」と呼ぶ人がいる。

脳が死ねば、これに浸透していた元意識は、単に浸透の状態がやむだけである。元意識に内包されるものは、そのままである。我々(=「私」)は、脳に浸透する元意識中の小我の有相化の結果として、今ここに在る、ということになる。

意識は非常識の可能(性)を内包していた。物理的、化学的な力、幻化或は物質化の働きも含まれていた。これらを例に、意識という「場」に在るエネルギーとみなすと、エネルギーは転化することになる。

意識は流れる。流動し、エネルギー密度が変る。物理的或は化学的変化がおこる。物質化もおこる。ボーアやハイゼンベルクのコペンハーゲン解釈と同じようにだ。宇宙創成という壮大なドラマを彷彿させる。

人の肉体も物質化の結果として成立したとすれば、肉体の源流は意識である。小我は意識と肉体の両展開中に存在することになる。我々は全体(心身ともに)として、小我そのものである。小我は自分であり、自我である。

“私は肥っている”という言葉を例にとると、「私の肉体が肥っているのであって、私という自我は肥っていない」とするのは如何なものか、「私の肉体も、私即ち自我も肥っている」と理解すべきであろう。

意識は時・空の制約を超えていた。その主人、自我も時・空に制約されないでいる、となる。自我は残り、消滅しない。大我の中に、融通無碍して存在する。

元意識は脳に浸透していたということについては、脳だけに浸透していなければならないという必然性もないのでこの枠をはずすことにする。総ての存在に元意識は浸透し、その存在の自我が内包される。元意識の浸透していく対象によって、有相と転化した意識の展開が変わるだけである。

地球の表面は大気なる気相におおわれている。この気相は地球表面どこでも一様の様相(=同相)を示すのではなく、各地域で異なった様相を展開する。大気に動きがなければ無相であり、我々一般人は大気の存在を知覚しない。各地の異なる地相が、その局地の大気の相を誘導している。この局地の大気の相が“気象”である。

気象は大気中の現象で、雨、風、雷、等々である。気の姿であり、気性ともいう。大気は大気だけだったら動かない、と云うより動けないのだ。大気の相がこれを動かす“縁”となる。大気、動き、気象の相を展開する時、大地の相も変る。気象と大地は相互依存の関係にある。大地は無相の大気を有相の気象に転化する。無相の元意識を有相の意識に転化する脳の役割りを担う。有相の気象のその後は、周囲の条件(=縁)によって様々に展開し、その末は無相に帰る。大気と元意識は類似可能といえそうである。

「気象」には「宇宙の根元とその作用である現象」の意味もあると云う。

無相の元意識が有相の意識に転化すると同時に、有相の意識の主人(=私)も有相化した。意識が私を動かすのか、私が意識を動かすのか、判然としないが、意識の主人が「私」であることは明確であった。この「私」が自我であり、命我であると我々は認識した。仏教では、意識は認識能力と認識能力に対応する対象とから成立する領域の内にあるととらえる。この意識(=心的要素)と物質(=物的要素)から生存(=我々)が成立する。これを「我」と称する。この生存とは、十二縁起と称される十二要素のプロセスをたどり老死に到る経緯を指す。そこには智慧(=明)と対極の無明とがある。智慧は慈悲であり、苦しみから解放してくれる知恵でもある。ゆえに智慧は瞑想の成果を上げる。「我」の成立も、生存(=「我」)がたどる系列も総て意識の振舞いである。この意識を「心」と称した。総ての生存が老死を「苦」としているわけではないが、それを苦とする時は、何が原因であるかと考えた。心がこのようにたどる道筋を逆にたどり、智慧が無い状態、即ち無明に到る、これが原因であるとした。

智慧とは“真相を直覚していること”である。真相(真理)とはどういうものか、それを自覚するにはどのようにしたらよいのか。それは悟りを得ることだろう。仏教は覚という言葉を用いる。「自らの本来の心を、ありのままに知る。それが悟りだ。」という言であるとともに、「心というものは、心という捉われによって捉えられるような心ではない。」という言でもある。更に次のような言もある。

  • 捉え難きは外界に非ずして、内心の仏である。近くに在りながら見極め難し。微細でありながら宇宙に偏在する。(仏=覚者)
  • 一切の思慮を超絶する心の根源で、世の一切の事象を鑒知する。意識は有相、がゆえに我々の意識はいろいろな縁にふりまわされ、苦に到る無相であるがゆえに、なにも無い「空」性である。それだけか? それを実感できれば、どうにかなるのか?そう、その時に智慧が生じる。空性の中心の一点として、智慧と慈悲がワンセットで存在する。これが我々の心(=意識)の本性であると指摘した人がいた。有相の意識を有する生存(=人)の“智慧を指向する心”を菩提心と称す、智慧を得た生存がこれを有相の存在(=人)のために生かそうとする“慈悲を指向する心”も菩薩心と称す、と。この「空」は「何も無い」ということではない。元意識はエネルギーの「場」である。そこには「動く」という有相にはまだなっていない無相の意識が存在する。智慧をもってこの無相の意識を動かすと、その時「慈悲」が生じる。我々の心は、本来、無相の「空」性であることを実感できる。これが心の本性をありのままに知ることとなる。どうやら意識の本態を実感することにポイントがありそうである。

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○(まる)に・(てん)は禅僧がよく描くとされている。「まる」はこれがないと中心の「てん」がゴミと間違えられる。これを避けるために描くが、本来は無い。空性の中の1点は上述の意味を解釈することにする。無相の元意識が含むエネルギーを仏教はこのように活用してきたということである。

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視床の機能を探求 その2  意識論(2)

意識はこのように流れているのが一般的であるが、我々は日常、様々な場面でこの言葉を用いる。ということは「意識」なる言葉は様々な「意味あい」で用いられているということである。どのような意味で用いられているのか?

  1. 覚醒(vigilance)―― めざめている
  2. 知覚(awareness)―― 高次の情報処理
  3. 注意(attention)―― 情報に対する意識の働き
  4. 随意運動(voluntary action)―― 意志による運動
  5. 自意識(self-recognition)―― 自分自身についての意識(自我)
  6. メタ認知(metacognition)―― 自己の心的状態の把握
  7. 体と独立した実在としての意識 ―― 普遍の意識
  8. 認識力 ―― 医療救命救急の分野で繁用
  9. 認識と表象の能力 ―― 西洋哲学分野で繁用11、現在、自分が認識している内容 ―― 精神分析の分野で繁用 (1)認識する心の働きである。内面的な精神活動による働きである。 (2)世界の構成原理の根底である。知識、感情、意思の総ての働きを含むその根底にあるもの。    識とは感覚器官を媒介として対象をただ受け取る働きである。我々としては、(1)は最もよく理解できる。(2)になると哲学的・心理学的な雰囲気が漂いピンとこない。意識が存在しなければ世の中は始まらないということか・・・と思う位である。(3)は「悟」の定義であり、明解である。なるほど、意識とは器官を通して内容を把握する働きのことかと理解できる。あえて、超能力現象が意識の働きによると仮定して、それを観察してみる。・念写は、何枚か重ねた写真乾板を物理的に遮蔽し、そのうちの指定した一枚のみに、念者を行う本人の想念像を感光像として写真乾板に出現させる。福来の実験では、過去の体験に基づく想念の感光像には、本人の記憶にはなく、現像された感光像から、それに気づいた過去経験も含まれている。即ち、意識には化学的作用がある、忘却したことも、そのまま意識に保持されている。・物質化は、ヨーガ行者による想念の物質化と眼前の物質の消去の観察記録がある(アメリこれらのことから、超能力現象の「場」における意識は個人の脳髄の枠内にとどまらず、時・空間の制約を脱し、限局することなく広範に広がる。135億光年先までもだ。物理的・化学的な作用をもち、非物質的存在を物質化する。一度、意識に記録されると、それは保存される。意識は、非物質相と物質相の両相を示し得る。という極めて融通無碍な姿が浮んでくる。だが、これは納得難しである。脳科学は「脳活動により意識は生産される」とは表現していないが、我々は“生産される”と受けとめてしまうからだ。どうみても、脳の故障による意識産生の途絶によるという印象である。脳には録画、或いは録音されたものを再生する働きはないように思える。ではあるが、超能力が意識によるものとすると“意識についての説明文”(1)は、その枠を拡げる必要が生じてくる。時・空間を超越し、非常識な作用力を内包し、物質相と非物質相の両相を示し得る「意識」と称する何ものかを、我々の脳神経細胞が生産していることになる。このようなものを脳は生産できるであろうか。(B)“生産による”とすれば、意識の示す様々な相の夫々が脳の産物である。直ちに有相(A)(B)のどちらであるかを問わず、今、脳が働き、「○○を知る。」という瞬間、この時の「○○を知る。」という体験は、「私が知る。」という「私」が主人であることを教示する。“私と知るとの関係”という抽象対象をとらえる器官は「意」、この「意」の知覚したものを識が選択し、そのまま受容した時、意識の成立とともに「私」が出現する。(A)であるとした時、元本(=何ものか)と脳とはどのような配列になり得るのだろうか。単純に脳は常に元本に接している、また元本は脳に浸透しているとすると、脳は元本を常に用いることができるということになる。
  10. 「私」は意識の主人である以上、意識の生産物ではない。経験的に、「私」は意識が動く時のみ出現する。意識を動かすことなく、単独で「私」を出現させることはできない。「私」は意識に内包されて在り、意識とは別個に存在しない。単独で「私」を出現させることができるならば、脳は「私」を生産している可能性があるが、それがおこらないところをみると、脳は「私」を生産していない。「私」を生産することがなければ「私」を内包するところの意識を生産することはない。(A)ということになる。
  11. のものとして呈示される。有相の主人は、脳の産物であってもよし、脳自体であってもよい。
  12. (A)“生産にあらず”とすれば、何かその元になる元本が既にあるはずだ。脳は、元本にある様相を、我々が把握できる様相に有相化するだけである。元本は無相ということになる。有相化した相に、その相の主人が必要な場合は、その主人も無相から有相化される。
  13. 我々は、脳科学の見解に立ち、意識について、次のように理解している。我々の脳は、ネットワークを形成し、ネットワーク外からの刺戟に応答する様式を発達させ、我々が精神活動と称している「働き」を示すに到る。これが「意識」であると。この理解は、環境(=外界)に対する意識の主人を通しての応答であるから、“意識についての説明文”の(1)に該当する。
  14. 仮にてんかん発作を持つ人がいるとする。この人は発作の予兆を感じているのかもしれないが、外からみていると、突然の痙攣発作と共に失心、即ち意識を失う。発作が終り、意識がもどるとともに目を醒まし、あたりを見回したあと、「ここは、どこ・・・?」と質問することが多い。発作前の周囲状況と目覚め時の周囲状況に連続性がなくなっているのだ。
  15. カのヒマラヤ探検隊の記録「ヒマラヤ聖者の生活探求」)。即ち、意識には、想念を物質化する作用がある。
  16. ・念動は、これを行うものが、対照物体に注意を集中することで、その物体が移動する。即ち、意識には物理的な力がある。
  17. ・透視は、空間の遠近に関係なく、また物理的な遮蔽によって妨げられることなく行われる。他人の過去経験も見る。即ち、意識は時間・空間の制約をうけない。
  18. 以上のことから、意識は、時・空間の枠を超えての知覚、または直覚、或いは物理的・化学的な力の場面には登場しない。したがって、超能力現象は意識以外の作用によるものではないかと推察してしまう。
  19.     (知覚とは内容の把握、感覚とは内容の把握はなく、ただ受け取ること)
  20.  (3)意とは感覚器官を媒介としないで、抽象的なものを知覚する働きである。
  21.     脳髄の活動に基づき、その主体がおかれた環境の主観的な反映である。時間的・空間的な制約をうける。
  22. などなど、説明文なしでは理解しがたい。あるものを理解するうえで重要なことは、そのあるものを体験・観察することである。意識についても体験・観察の違いから、意味・用法の違いも生じてくるし、理解度にも違いが出てくる。意識について、他の解説をあげてみる。
  23. 10、感覚・感情・観念 ―― 心理学分野で繁用

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視床の機能を探求 その2  意識論(1)

死後の世界を認めている医学者は日本にもいる。東大病院集中治療部部長の矢作直樹医師が「肉体は滅んでも魂は永遠に続く」と述べ、死後の世界の存在を断言している。このように、色々な方面から「あの世」の存在が証明されようとしている。長寿を全うして、あの世に旅立つとき、あの世が安らかで壮麗な世界と解っていれば、何も恐れることはないのだ。

それに脳の奥底に隠されていた能力を自覚できるようになれば、この世も「あの世」と同じぐらい素晴らしく思えてくるに違いない。様々な動物と会話することができたら、とうの昔に死別した愛しい人と会って、在りし日の思い出話に興ずることができたら、どれほど心がワクワクすることか。この世の森羅万象、全てが同源と感じられたら、さぞかし平穏な気持ちになれるだろうか。実生活においても、ストレス疾患からの回避は勿論のこと、危機予測が可能となれば、予期しない事故に遭遇する確率も低くなる。だからこそ、第六感や第7感と呼ばれる能力を開発する意義は大きいのだ。大自然と融合する少女ティッピや荘厳な死後の世界を垣間見たエレキサンダー博士やテイラー博士、命の危機を回避したフランチェスカ、宇宙と一体化する修行僧のようにだ。

そこで、我々凡人が第6感や第7感と呼ばれる超能力を得るための方法だが、基本は瞑想にある。その効率を高めるのが活脳鍼による視床の活性化というのが私の思惑なのだ。勿論、常日頃五感を磨く努力も必要だし、瞑想の際、昇ってくる朝日を目に焼き付けることも習慣にすべきだ。スピリチュアルな体験者として有名なシャーリー・マクレーンは、自書の中で、松果体を超感覚的な認識器官としている。また、真言密教では大日如来が重要な位置を占めている。胎蔵曼荼羅にも大日如来が中心に座している。万物の慈母、宇宙の創造主としているからだ。空海上人もみくろ洞に差し込むだるま朝日を、光り輝く大日如来の姿とし、瞑想にふけていたのかもしれない。半眼の状態から目の奥に入る光は、視床の機能を増強し、松果体を活性化することで、解脱へのスピードを速めるだろう。

では、瞑想に活脳鍼を併用することを勧める理由だが、デンマーク生まれのトール・ノーレットランダーシュが著した「ユーザーイリュージョン・意識という幻想」という本を読めば、理解しやすい。キーポイントは“自分の行動は意識によりコントロールされていると思っているが、それは錯覚で、実際はは意識にのぼる前に脳は行動を決めているのだ。それは五感から刺激は0.5秒遅れて脳に到達し、意識化され、行動に移れるということになるが、脳はその前に無意識のうちに行動に移る準備をしている”である。

そこで、まずは、“意識とは何か?”という難題から取り組む必要がある。

世の中には超能力と称される現象がある。透覚、幻化、力化、物質化等がそれにあたる。透覚とは、言葉、文章、身振り等の伝達手段によらず、他人の現在或は過去の経験・想念などを知覚或は感覚することである。透視はその代表と言える。幻化とは、想念が視覚でとらえることのできる像となって現われるもの。力化とは、五官によって知覚すべき現象の枠を超え、物理的或は化学的な力となって現われるもので、念写、念動がそれである。物質化とは、想念が五官によって知覚できる幻化相を示すと同時に、物理的化学的な力として現われる幻化と力化とが合わさったもの、念の物質化である。

以上は、実験をとり入れて念写、透視を観察した、福来友吉の分類である。福来は東京帝国大学で心理学を研究し、同大助教授から高野山大学教授となり、透視や念写などの超能力の実験を積極的に行った学者である。その福来は、超能力現象は意識の作用であると述べている。この観点から意識を整理してみると、透視からは、知覚(=空間)的、時間的な制約をうけずに見る或は知る(感覚する或は近くする)、幻化からは具像化、力化からは物理的・化学的な力、物質化からは幻化と力化の同時的な力などを有することが窺える。これらは、我々が日頃経験している意識とは異質でと言える。

ここで、意識の動きを観察してみる。仮に一心不乱に仕事をしている職人がここに居るとする。その仕事振りは、手先の一転に意識を集中する、次の瞬間に無意識に動く手の作業が続く。下記のように意識を集中する時間は、ある時は長く、ある時は短く、この一連の動きが反覆することで、一連の工程がなされていく。職人は、一点に意識を集中するが、一連の手の動きに意識を向けることはない。

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つまり、無意識相(A)→有意識層(B)→無意識相(A)→有意識層(B)という意識の流れが観察できる。意識の流れの中で、自己の意識の有意識相は自覚できるが、無意識相は自覚していない。だが、無意識相があったことは知っている。「この仕事をしていたのは私だ。」と気づくことによってである。では、なぜ気づくことができるのだろうか。それは、寸前に行った、この過去経験について、それは自分の経験だという感じを直覚(知覚ではなく)するからである。かくして、意識には有意識相(以下有相)と無意識相(以下無相、但し正確には非有意識相というべきか)とがあることに気づく。知覚とは、頭脳の働きを用いてその内容を把握することであるが、この知覚の働きによって把握できる意識の流れの部分が有相である。知覚をもって把握できない流れの部分が無相である。無相の存在は直覚によるしかない、直覚できなければ意識は有相のみから成るということになる。この有相と無相は互に独立しているのではなく、互に連結する。

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視床の機能を探求 その1 視床と未知なる力(24)

視床の機能を、西洋医学的、あるいは書物や文献から得られた知識、日頃の臨床を加味し、独善的な解釈のもとに述べてきた。その目的は簡単明瞭、皆が幸せになって貰いたいだけだ。何も得体の知れない力を持つことだけを望んでいるわけではない。光輝く世界を覗き見ることが全てではない。まずは命を粗末にせず、長生きして欲しい。それまでは元気に楽しく人生を歩んでもらいたい。これが絶対で、未知なる能力は二の次であることは言うまでもない。ただ、これは個人的な願望に過ぎないかもしれないが、もし寿命をまっとうし、死を恐れず、安心立命な境地になり、あの世に旅立って行ければ、これほど幸せなことはないだろう。 現代社会はストレスに満ち、自律神経失調症に悩む人も多い。それどころか、精神的な病に発展してしまうこともある。解決策が見つからず、自ら命を絶ってしまう者もいるのだ。周りの者の悲しみは筆舌には尽くしがたい。それが血を分けた肉親だったら、立ち直れないぐらい悲しみのどん底に落ちてしまうだろう。世の中には順番がある。自分の親より早く逝ってはならない。それに生物としての義務、人間として生まれた役目もある。それを果すまでは、石にかじりついても生き抜くべきだ。どんな人間でも必然性を持って生きている。世に貢献している実感がなくても、カフスの法則の通り、回り回って大きな力となり世の為になっているのだ。尤も悪行の連鎖では困る。たまに無法の道を拡大する人がいるので。 とは云うものの、世の中には病気や事故、事件、天災、戦争などで不幸な死を迎える人も数知れず。なかには幼くして死んでしまう者もいる。何と情け知らずの世界なのだろう。不合理・不条理がまかり通っている。不慮の死でないとしても、家族の悲しみは計り知れない。あの弘法大師空海でさえ、“哀しいかな、哀しいかな、哀れの中の哀れなり。悲しいかな、悲しいかな、悲しみが中の悲しみなり。哀しいかな、哀しいかな、 また哀しいかな。悲しいかな、 悲しいかな、重ねて悲しいかな”と、愛弟子であり甥っ子でもある智泉の若き病死を嘆き、追悼の言葉を残している。何度も哀しいかな悲しいかなを繰り返し、惜別の苦しみを訴えている。空海上人の嗚咽が聞こえそうだ。 予知能力もそうだ。不吉な予感が感じられれば、事故や事件による無駄死を回避できる可能性が高くなる。歩いていても、いつ車や自転車が突っ込んでくるか、気が気ではない。電車もジェット機も安心してはいられない。それどころか、ニューヨーク世界貿易センタービルやパリ市街地を狙った連続多発テロの恐怖もさめやらぬ。このご時世、対岸の火事とのん気なことを言っていられない、明日は我が身と心得た方が無難だ。勿論、関係各国が協力して、二度とこのような悲惨な事件が起こらないようにしてもらいたいところだが、そう簡単に終結するような問題ではない。大きな禍根が残っているからだ。戦勝国のエゴは今も昔も変わらない。 だとしたら、このような災難に遭遇しないようにするのが、ベストである。もし、それが予知できたら、卑劣なテロから身を守ることができるだろう。 今でも目に焼き付いているのは、御巣鷹山の日航機事故のニュースだ。隔壁破壊が原因とされているが、定かではない。ダッチロールを繰り返し羽田に戻って行ったようだが、上下左右に大きく揺れる機内、パイロットも客室乗務員も搭乗客も生きた心地がしなかっただろう。その恐怖のうちに人生の幕を閉じてしまったのだから、さぞかし無念だったに違いない。改めて追悼の意を表したい。結局520名もの死者が出たが、その中に実力歌手の坂本九氏もいた。“上を向いて歩こう、涙がこぼれないように!”多くの国民が辛い時に口ずさんだ歌だ。生前の面影が目に浮かぶ。また、自衛隊のヘリで救出される若い女性の姿を見たときの感動は忘れられない。人の命はこれほど尊いものなのだ。ただ、惜しみなくは、もう少し早く救援隊が駆けつければ、更に生存者数は増えていたのではないかということ。人跡未踏の山中で起きた事故、難しい注文かもしれないが。 ところが、その一方、運良く難を逃れた芸能人がいた。明石家さんま氏や稲川淳二氏だ。故人となってしまったが、アナウンサーの逸見政孝氏も、その中の一人だ。それどころか、モノレールの遅延で乗り遅れ、難を逃れた一般人もいたと聞く。明石家さんま氏は、テレビの収録が早く終わったので、その前のANA便で大阪に帰ったとのこと。稲川淳二氏は体調不良で翌朝の新幹線を利用したそうだ。これを単なる偶然と捉えるか、何かの導きと捉えか、はたまた未知なる能力と捉えるかは個々の自由だが、難を逃れたということについては、万人がホッと胸を撫で下ろすところであろう。 昔、放射線技師として病院に勤務しているとき、多くの患者の死を目の前にした。末期ガンの患者もいた。今のように精度の高い診断法もないし、効果的な治療法もあるわけでもないので、かなり進行しているケースが飛びぬけて多かった。こうなると、コバルトなどの放射線治療器の性能は十分に発揮できない。終末期の放射線治療は痛みの緩和を目的にすることもあった。放射線科医にとってもこれは最後の選択枝で、心は空しさで一杯だっただろう。 その頃の記憶で、未だに鮮明に残っているのは、5歳の骨肉腫の患者だ。小学校に入学するのを楽しみにしていたが、肺から脳に転移して、あっという間に逝ってしまった。放医研まで行って、粒子線の治療まで受けたというのにだ。悲しい現実である。そのとき思ったのは、あの世がなければ、この子は救われない。そして、あの世は光輝く荘厳な世界で、一切の苦しみがなく、心穏やかにやっていけるところでなければならないとだ。唯物論者が次第に51対49の確率で、あの世の存在を肯定するようになっていた。世の中には死にきれぬ思いで病死する者もいる。死の意味さえ知らず幼くして病死する者、戦争で非業の死を遂げる者、突然の事故であっという間に昇天しまう者もいる。実に気の毒だ。 現在、鍼灸師として様々な難病に対峙しているが、いつも病人の苦しみは計り知れないと、同情の念を禁じ得ない。また、本人もさることながら、家族の不安や悲しみも尽きることはない。年老いた母親、まだまだ若い奥さん、幼い子供、皆心配そうな顔つきで治療を眺めている。どうか宜しくお願いします!この言葉は胸に重く伸し掛かる。心情が痛いぐらい分るからだ。 特に若い脳卒中後遺症患者を診るときは、神経を遣う。殆どうつ状態だからだ。付き添いの家族も大なり小なりうつ状態にある。それは当然だろう。健康的な生活をしてきたし、神の罰を受けるような悪いこともしていない。何で俺が?何で貴方が?これからどのように生活設計を立てればよいのか?青天の霹靂のような事態に、将来の希望を失いかけているのだ。ただ、そのうつが脳内の伝達物質の分泌や代謝を低下させ、回復を長引かせている例も少なくない。活脳鍼は脳卒中の後遺症やうつ、軽度の認知症、痛みやしびれの中枢性感作などに奏功するので、このような病態にも効果的だが、回復傾向がみられるまでは気が気ではない。一刻も早く改善させ、明るい希望を持たせてあげたいし、それに自費治療なので結果が全て、患者の期待を裏切ることは治療家としてのプロ意識が許さないからだ。 最近NHKでストレスを感じると扁桃体が興奮して副腎から抗ストレスホルモンの分泌が促進され、やがてそれが脳細胞を破壊するという恐ろしい研究結果を放映した。これはうつの悪化と認知症発症の危険性を示唆している。それを緩和するのが、前頭葉の良識ある判断だが、度重なるストレスがあると逆に暴走してコントロールきかなくなり、最悪の結果を招くこともある。だからこそ、自分を守るためストレスを回避したり解消したり、あるいはナイーブな性分を乗り越えて図太い神経を持ちストレスに対する感受性を低下させることが必要なのだ。 更に深刻なのは末期のガン患者だ。本人あるいは家族の依頼で、クオリティライフを向上させるため活脳鍼も行っている。なかには、偶然かも知れないが、余命半年と宣告された肺ガン患者が15年近く延命した例もあるし、大腸がんの腹膜転移による腹水が綺麗に消え5年近く生き延びた例もある。このように西洋医学で回復不可と宣告されても、東洋医学という異なった土俵に上がれば、何がしかの好ましい結果が得られることもあるのだ。数千年の歴史のある鍼灸や漢方、奇跡的なことが往々にして起こる。だから、例え病院で見放されたとしても、諦めてはならない。是が非でも病気に立ち向かって欲しい。そして、何度も言うが、長寿をまっとうして晴れやかに極楽浄土に旅立って欲しい。活脳鍼が、その一助になれば恐悦至極である。

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